【BOOK】『どんまい』重松清:著 もうひとつのカープの物語

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読んだ。泣いた。なぜこれほどまでに泣けるのだろうか。

本書を宣伝するなら何といえばよいだろうか。
重松ワールドの幕の内弁当・広島お好みソース味、とでも言うか。
ぜひ、不惑(と言われる)40代以上の悩めるおっさん・おばはんたちもご賞味あれ!
最後は涙の塩味になるかもよ。

“ちぐさ台団地の星”と呼ばれたかつての甲子園球児、要介護の親を田舎に抱えるキャプテン、謎多き老人・カントク、そして夫に“捨てられた”洋子と娘の香織―草野球チームを通して交錯する「ふつうの人々」の人生を鮮やかに描ききった傑作長編小説。

読むと人生のグレーな部分の解像度が上がる気がする

重松清さんは、人生の黒でもない白でもないグレーな部分を描く作家さん、という印象がある。
さまざまな濃度で、微妙に階調が違うグレーであり、無彩色なのに色がついているかのような、そんな色相までもを含んだグレーが織り重なってできている。

登場人物はいずれも、ごく普通のひとたち。
どこにでもいそうな、自分の周りに似たような人がいるかもと思わせる、そんな普通の人々が悩み、苦しみ、時に笑い、泣き、もがき、諦め、そして最後はもう一度、前を向く。
本作も、そんな人たちが入り乱れ、泣き笑い、立ち上がってゆく、そんな物語になっている。

Kindle版の書籍紹介ではこのように記述されている。

苦労(ピンチ)のあとこそ、チャンスだ!

家族と、仲間と、野球が好きだから――。
合言葉は、「だいじょうぶ! どんまい(Don’t Mind!)!」

草野球に、人生の縮図あり!
白球と汗と涙の長編小説。

「わたし、水原勇気になりたかったの」――離婚後のリスタートで、娘の香織を連れて草野球を始めたアラフォーの洋子だが、やはり現実は厳しい。迎えるチームの面々も、介護や子育てに悩み、リストラに怯え、いじめに傷ついて……。でも、合言葉は「どんまい!」。野球愛と人生への熱いエールに満ちた長編小説。

ーーーーー以下、ネタバレ注意ーーーーー

メンバーそれぞれの「葛藤」の糸が絡み合ってゆく

主な登場人物たち、ちぐさ台カープの面々は皆、「葛藤」を抱えて生きている。
主人公・洋子はアラフォーで夫と離婚し、これからの娘との生活と、家計を支えるための就職と、これまでの自分に対するイライラとを抱えている。

洋子の娘・香織は父と母の離婚の原因が夫の不倫があったことと、それをどうにもできない現実にいらだち、傷つき、それでも優しい心根でそれを乗り越えようともがいている。

チームのキャプテン田村は都内での生活と、老親の介護で実家広島を週末に往復する状況の中、いつか来る「その時」を目の前に苦悶する。

他のチームのメンバーもそれぞれ、個別の事情を抱えている。
子育て、単身赴任、リストラの不安、学校でのいじめ、自身の病気・・・それらはいずれも、誰にでも起こりうる、身近な「問題」だ。
身近だけど、簡単には答えが出ない、そんな問題ばかり。

子どもの頃は、大人になれば悩みなんてなくなると思っていたのに、実際に大人になっても、ちっとも悩みは尽きない。
20代のころは、30になればなんとかなるさ。
30代のころは、40になればどうにかなるだろ。
40代になっては、50になっても変わらないのかも・・・。
実際は変わらないどころか、どんどん新しい悩みが増えていくのだ。
一方で、大人になってふと思う。
なんであんなことで悩んでいたんだろうと首をかしげるようなこともある。

学校で習ったことは、何の役にも立っていない気がするし、役に立っているのかもしれない、とも思う。
答えを出そうとすると、どれもが「正解」に見えて仕方がない。

Mr.Childrenの『GIFT』で桜井和寿は歌う。

「白か黒で答えろ」という 難題を突きつけられ
ぶち当たった壁の前で
僕らはまた迷っている 迷ってるけど
白と黒のその間に 無限の色が広がってる

人生の様々な局面で悩むときは、この「無限の色」をずっと探しているのかもしれない、と思った。

RADWIMPSの『正解』の中で野田洋次郎は歌う。

ああ 答えが ある問いばかりを
教わってきたよ そのせいだろうか
僕たちが知りたかったのは
いつも正解など 大人たちも知らない

きっとそうなんだ。大人だって正解がなんだか分からなくてずっとモヤモヤしているんだよな。

あのころのカープと今を生きるカープの物語

重松作品にはカープを主題とした作品がもうひとつある。
もはや伝説的な珠玉の名作といっていい『赤ヘル1975』である。

一九七五年――昭和五十年。広島カープの帽子が紺から赤に変わり、原爆投下から三十年が経った年、一人の少年が東京から引っ越してきた。やんちゃな野球少年・ヤス、新聞記者志望のユキオ、そして頼りない父親に連れられてきた東京の少年・マナブ。カープは開幕十試合を終えて四勝六敗。まだ誰も奇跡のはじまりに気づいていない頃、子供たちの物語は幕を開ける。

当時の広島の熱狂と興奮の渦の中、やはり「葛藤」を抱えた少年たち、大人たちの物語が綴られている。
当時私は広島に生まれ、3歳になる年だが、直接的な記憶はない。
しかし、広島で生まれ育った多くの子どもは、物心着く前からカープのファンであることがあたりまえだった。
小学校の先生は、前日のカープが勝てば上機嫌で宿題が少なくなるが、負ければ倍増するところなど、当時から同じだったのだなと、リアルな共感を抱いたものだ。

『どんまい』の方のカープは、本物のカープではなく、「ちぐさ台」という架空の街の、草野球チームだ。
重松作品ではお馴染みの「ニュータウン」が舞台となる。

ここでの大きな「縦糸」となるのが、謎の老人「カントク」である。
広島で生まれ育ち、原爆で家族全員を失い、カープ初優勝ののち、上京したらしい、ということが序盤で明かされる。
この老人の、人生の酸いも甘いも噛み分けた、含蓄のある言葉が胸に染み入ってくるのだ。

かつての広島の、原爆の話しをするときの言葉。

「忘れてしまうんは、ええことじゃと思うよ、わし。風化していけばええんよ。それがニッポンが平和になったいうことなんじゃけえ」

被災地を取材した著者だからこその言葉、と言えるかもしれない。
一般に、テレビも新聞報道も「風化させてはいけない」という誰にも異を唱えにくい、ある種の「同調圧力」のような流れがある。
そんな流れにも一石を投じるかのような「風化していけばええんよ」という言葉が、重い。
ただ、ここで言う「風化」とは、完全に平和な世界になったときに初めて言えることであって、まだまだ平和とは言えない段階では、やはり伝え続けていくことが大切だろう。
逆説的だが、伝え続けなければ風化させることもできないのだから。

中学受験失敗から不登校になってしまった光司は、ライターの田村章に連れられ、被災地を回る旅に出た。宮古、陸前高田、釜石、大船渡、仙台、石巻、気仙沼、南三陸、いわき、南相馬、飯舘……。破壊された風景を目にし、絶望せずに前を向く人と出会った光司の心に徐々に変化が起こる――。被災地への徹底取材により紡がれた渾身のドキュメントノベル。

中学から高校時代はずっとバントしかしてこなかったバント職人・ウズマキの接待で試合をしなければならなくなったときの言葉。

草野球は勝ち負けと違うんじゃ。負けることもできんような草野球は、窮屈でつまらんじゃろうが。

世の中には理屈の通らんこともぎょうさんあるわい。ひとの情が通っとればええんじゃ。草野球いうもんは

子どもたちがずうっとやってきた野球とはひと味もふた味も違う、これこそが「草野球」なんだと、教えてくれる。
ルールがあるからこそ、そこには理屈が通らないことが、見えにくいが、厳然とあって、だからこそ、ひとの情でうまいことやりくりするしかないのだろう。

そして、ラスト近くの、昔の思い出話をするカントクの、愛を感じる言葉。

ほいでも、広島でいちばんまぶしかったんは、市民球場のナイターじゃ。まだネオンもろくにない時代じゃけえ、ほんまにまぶしゅうて・・・・・・遠くからでも大歓声が聞こえてきて、ああ、これが平和ちゅうもんじゃ、平和はええのう、野球はええのう、いうて・・・・・・嫁さんが死んだ晩も、ナイターの明かりが病院から見えとった。明るいけえ、道に迷わんと天国まで行けるのう、よかったのう、よかったのう、いうて・・・・・・

広島を愛し、カープを愛し、奥さんを愛したカントクの切なさと、全てを受け入れて全てを背負った男の、悲しみが胸に迫る・・・。
本を読みながら、視界がぼやけてしょうがないよのう・・・・・・。

負けることの大切さ、そのための1勝を目指すこと

プロで大活躍する天才投手・吉岡の元・女房役、甲子園経験者でキャッチャーの将大と、高校野球部の恩師との会話。
恩師が語る高校野球、高校生スポーツの、触れられざる真実。

おまえも大学を卒業したんだからわかると思うけど、人生なんてリーグ戦だよ。勝ったり負けたりして、そりゃあ順位はつくかもしれないけどな。一回負けたら終わるなんて、そんな人生はないんだ、どこにも

たしかに、高校生以下の学生スポーツはほとんどがトーナメント制だ。
つまり、1回負けたらそこで全て終わり。
たった1度の敗戦で、その大会は終わってしまう。
敗者復活戦などがあるにせよ、負けたら終わりだからこそ、という緊張感があることで盛り上がることも、よくわかる。
だけど、それで本当にいいのだろうか?
高校野球に教育的な意味合いがあるのであれば、勝ったり負けたりがあるリーグ戦も意味があるのではないか。
時間的な制約や試合場所の確保などでトーナメント制にしないと、広く多くの学校が参加できない、という現実もあるだろう。
1度負けたら終わってしまうことから、失敗を怖れて行動できない、思考停止になってしまうことも、弊害としてあるのではないか、とも思う。

熊本 秀岳館高校 サッカー部コーチの暴行 監督ら事実認め謝罪 | NHK

横浜高校野球部でいじめ問題勃発。元巨人プロ選手を親に持つ有望選手が退学も学校は知らん顔?2019年に続き再び不祥事か – まぐまぐニュース!

トーナメント制か否かとは直接的な関係はないが、こうした行き過ぎた管理、極端な勝利至上主義も、いまいちど見直されるべき時期に来ているのではないかと感じる。

ただ、だからといって、勝ち負けに拘らないでよい、ということもでないだろう。
勝つことを目指すから技術面でも精神面でも成長できるし、やはり勝たないと楽しくはない。
だけど、制度上、1回負けたら終わってしまうのであれば、優勝校以外は全て「負けて終わる」ことになる。
だからこそ、「負けることの悔しさや悲しさ」を「高校を出てからの、長い人生のために」教えてやりたい、と恩師は考えたのだ。

高校生ぐらいまでは(ひょっとしたら大人になってからも)指導者(あるいは上司・先輩社員)がなぜ怒っているのか、よく分からないものだ。
分からないけど怒られたら怖いから、言われたとおりやっておこう、と動く。
後になって、なぜ怒られたのかに気づいたとき、そこで初めて成長できるのではないだろうか。

だからな、俺はいま思うんだよ、ちゃんと負けさせてやるために、一度だけでも勝たせてやらなきゃいけない、ってな

恩師の元で、プロで活躍する吉岡は「うまく負けること」ができなかった。
一方、将大は吉岡の活躍の影に隠れて「うまく勝てなかった」。
バッテリーを組んだ2人が高校卒業後、対照的な道に進み、それぞれに「葛藤」を抱えていくが、根っこはここ「うまく負ける、うまく勝つ」ことにあったのではないだろうか。

おとなはみんな、後悔しながら生きている

ケガをして半ばやけくそでプロを引退しようとしている吉岡に対する、洋子の台詞が、多くのおっさんおばはんに滲みる。

おとなはみんな後悔しながら生きてんの! 後悔することたくさんあって、もうどうにもならないこといっぱいあって、でも、人生やめるわけにはいかないから必死に生きてんの!

「後悔したくないから引退する」という吉岡を「甘ったれたこと言ってんじゃないわよ!」と一喝する。
吉岡にしてみれば、ケガをして治ったとしても全盛期のパフォーマンスがだせなければ、潔く引退して第二の人生に賭ける、という気持ちはわかる。
多くのファンや、関係者が自身の活躍によって支えられてきたことも、気づいてはいるだろう。

一方で、洋子の言い分も、今この歳になってみれば、分かる気がする。
才能があってもなくても、お金があってもなくても、多くの人を巻き込んで社会の中でしか生きていくことができないのが人間だ。

どちらにも正義があり、どちらも間違っているとまでは言えないのだろう。
もし、どうしても、どうにもならなくなったら、「どんまい!」と叫んで、いま目の前のことに全力を出そう。
読み終わったとき、きっとそう思える。
そんな「もうひとつのカープ」の物語である。

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