うーん、これはちょっと・・・・・いろいろつつきたくなる記事に出会ってしまったので、つついてみる。
「とりあえず3年」は正しいの? 1年半で会社を辞めて思うこと「とりあえず3年」は正しいの? 1年半で会社を辞めて思うこと | みんなの転職
こちらの記事の詳細はリンク先でお読み頂きたいが、大まかな内容としては、
・筆者はフリータイター。平成元年生まれ。若い。
・大手のメーカーに新卒で就職したが、1年半で退職した
・新卒入社したら3年はやめるべきではない、ということに疑問がある
・結局、正解はないので、自分自身でよく考えるべき
ということかと解釈している。
結論としては、タイトルほど奇抜な着地点ではないと思う。
だが、ところどころに違和感を感じた。
その違和感を列挙していく。
Contents
(1)統計数字の多寡で常識かどうかは論じられないのではないか
ところがどっこい。厚生労働省の調査を見ると、新卒者の3年以内離職率は、3年連続で30%超え。そもそも平成7年以降、ほぼずっと3割以上を推移しており、決して彼らが「少数派」だとは言えない現状にあります。3年以内に辞めない70%を「マジョリティ」あるいは「常識」と括ることができるかどうかは……判断に悩むところですね。
新卒者が3年以内に離職しているのは「就職のミスマッチ」が原因だと言われている。
就活でマニュアル通りにこなし、運良く内定をとって入社してしまったがために、入社してから「こんなはずじゃなかった」と言って離職する、という典型パターンだ。
こうした「3年以内離職率がずっと30%だ」ということと、「就職したらとりあえずは3年がんばれ」というのは、まったく相関関係が無い。
「とりあえず3年」というのは、ミスマッチが無く入社した人も、そうでない人も、どんな人であれ、3年はまずはひたすらに仕事に打ち込んでみれば、何か見えなかったことが見えるようになるかもよ、といった意味合いであろう。
その3年という数字自体には、あまり意味は無い。
それこそ
石の上にも三年。商い三年。桃栗三年柿八年。ぽつぽつ三年波八年。――数多くの故事・ことわざが示すことからも、「3年」にはある程度の妥当性があると考えられます。もうずっと昔から、多くの人が経験則でそう語ってきたために、その説得力は折り紙つき。これは信頼できる。
この記事主が書いている通り「先人の知恵」であり、これくらいが妥当なラインじゃね? というくらいのものである。
仕事を始めた当初段階と、3年を経た後では、仕事に対する見方や考え方が違ってくるのが自然であろう。
そうした、ものの見方の変化は、個人によって違うことも当然である。
人によっては1年、ある人にとっては3年かもしれない。10年かかる人もいるだろう。
「とりあえずは3年がんばれ」というのは、表現をそのまま受け取るのではなく、「仕事に対するものの見方、意識が変わるくらいまでは頑張ってみろ」というメッセージなのだ。
(2)仕事において、最も大切なものを見ていないのではないか
しかしこれは見方を変えると、「3年以内退職」がもたらすデメリットは「面接官の猜疑心」に過ぎない、とも言えなくもありません。つまり、もしその疑念を晴らすだけの「辞める理由」があるのならば、無理に3年も勤めあげる必要はないと考えられるのではないでしょうか。
まあ、そりゃそうだろうよ、というツッコミで終わってしまいそうだが、記事主は仕事における最も大切なものが見えていないのかもしれない。
「3年以内退職」がもたらすデメリットが「面接官の猜疑心」だと喝破しておられるが、そもそもその面接官の猜疑心はどこから来るのか?
「3年以内に退職」しているから猜疑心が生まれるのではないのだ。
そもそも面接官は「この人は本当にウチで仕事できるだろうか、大丈夫だろうか、頑張れるだろうか」という猜疑心からスタートしている。
そこに「3年以内に退職」した人がいれば、なおさらである。
もちろん、きちんとした退職理由があれば、それはもちろん問題ないだろう。
だが、3年以内に退職する人の多くは、就活時のミスマッチが原因であることが多い。
つまり、就活時にちゃんと業界研究をしたり、自己分析ができていなかった可能性が大いにあるということだ。
そんな人間を積極的に採用しようという企業は、ほとんどないことは容易に想像できる。
では、仕事において最も大切なものとは、なんであろうか。
それは、「仕事とは、ひとりでは完結しないものである」ということだ。
どんな仕事であれ、一人で始めて一人で終わる仕事というものはない。
作業内容によっては、そういう1日があるかもしれないが、そういう短期的なスパンではなく、ひとつの仕事の始まりから終わりまでの長期スパンでの話しである。
仕事であるからには、そこには当然「客」の存在がある。
何も一般人だけが客ではない。
B to Bのビジネスであれば、企業対企業の取引だし、B to Cビジネスであっても、実はB to B to Cであったりするものだ。
「客」である相手に対して、役に立つこと。
これが仕事の大原則である。
だから仕事は一人では完結しないのである。
そういう意味では、「面接官の猜疑心」だとか、そういう表面的なことが問題なのではなく、相手に対して役に立つという行為(=仕事)を行う人間を採用するかしないかという段階で、業界研究もできず自己分析もできず、結果として3年以内に退職してしまった、という人間を採用できるかというと、よほどの説得力のあることが提示できない限りは、相当厳しいと言わざるをえない。
(3)仕事に取り組む姿勢が受け身過ぎるのではないか
では、もう一方の主張はどうでしょうか。言い方を変えると、「3年は続ければ仕事のやりがいを感じられるようになる(はずだ)ぜ!」という意見。4年目以上の先輩・上司がそのように話すのであれば、確かにそれは説得力を持つ言葉であるようにも感じますね。
ですが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、これは結果論でしかありません。「その先輩がたまたまその仕事・企業と合っていたからこそ楽しめている4年目がある」というものでしかなく、入社した誰もがそれに追随できるとは限らないのが現実です。だからこそ、「合わない」と感じて早々に辞める新入社員もいるのでしょう。
3年間会社に言われるままに仕事をしていれば、自然と仕事に対するやりがいや楽しさがわかってくる、というわけではない。
どんなことでもそうだが、ただ漫然とこなしているだけでは、何事も進歩はない。
「慣れ」は何も考えていなくても出てくるだろうが、「成長」はしない。
「成長」するために必要なのは「PDCAを回す」ということである。
PDCAというけれど
PDCAとは、詳細は上記リンクを辿って頂きたいが、つまり「試行錯誤を繰り返す」ということ。
ひとつの方法にこだわらず、仮説を立て、実行し、検証〜次への計画立案へ動く。
仕事においては当たり前にやらなければならないことである。
そして仕事ができる人というのは、このPDCAを高いレベルで回し続ける人のことを指す。
仕事に対する姿勢が受け身では、あらゆる面で影響が表面化してくる。
例えば記事主は、
そもそもの前提として、その人と仕事(あるいは会社)との相性が絶望的に悪ければ、何十年続けたところで「魅力」を感じることはできないのではないでしょうか。続けるためには、仕事は仕事として割り切るか、無理に「楽しい」と思い込むことで前向きに捉えるか、いずれかの考え方に移行せざるをえないように思います(それこそが勤労の「王道」「常識」だと話す人もいます)。
と、のたまう。
これが受け身であるということだ。
仕事に「相性」があり、自分と合うか合わないかは、仕事をする前にすでに決まっていて、変えられないあるいは変える気がない、という姿勢が見えてしまっているのだ。
仕事に魅力を感じるか感じないかは、本人の姿勢で決まる。
仕事に取り組む熱意や意志、もっと俯瞰で言うと「ものの見方、捉え方、考え方」によるのだ。
「万事塞翁が馬」という言葉がある。
「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」
幸か不幸かは、その時の感情や表面的な事柄だけで決めつけるべきではない、という解釈ができる。
仕事においても、その時は単純な作業に見えるかもしれないが、単純な作業だからといって、つまらないものだという見方をしていると、いつまで経っても「つまらない仕事」のままだ。
ものの見方を変えることで、つまらない仕事は、おもしろい仕事に変えることができるのだ。
それを「仕事には相性があって、自分には向いていない」と思ったらそれまで。ゲームオーバーである。
その仕事をおもしろくするか、つまらなくするかは自分次第、という好例がこれ。
ちょっと長いけど引用させてもらう。
ふと、あるラジオ番組で
明石家さんまさんが言っていたことを思い出しました。
10代のころ、笑福亭松之助師匠のところで
弟子っ子修行をしていたさんまさんは、
毎朝廊下掃除をやらされていました。ある冬の日、いつものようにぞうきんがけしていると、
酔って朝帰りしたらしい師匠が通りかかり、
「なあ、そんなことしてて楽しいか?」
と聴いてきたそうです。
さんまさんが「いいえ」と答えると、
「そうか、そうやろな」と一言。そのあと師匠がかけたのは、
“だったら、やめろ”でも、“我慢してやれ”でもなく、「なら、どうやったら楽しくなるか、考えてみ」
という言葉でした。それからさんまさんは、
どうやったらぞうきんがけが楽しくなるか、
一生懸命考えたそうです。
もちろん、それで作業が楽になるわけはありません。しかし、あれこれ考えるうち、
ぞうきんがけがなんとなく楽しく、
苦痛ではなくなったそうです。人生で苦しいことをやらなければならないときは、
必ずある。けれど、そこにささやかな楽しみや幸せを見つけるのは、
知恵ひとつでできる。
どんな状況にあっても、
人間は考えることができるのですから。
私はそういう知恵を持った人間でありたいです。
(4)仕事をする上での「覚悟」が足りないのではないか
退職を悩んだときの考え方として僕がおすすめしたいのは、次の2点です。「将来の選択肢を狭めるくらいなら、辞めてしまったほうがいい」ということ。そして「基本戦略は『いのちをだいじに』で立ちまわるべき」ということ。
この結論めいた2点について、それ自体には異論はない。
若いうちは将来的な選択肢を広く持ったほうがいい。
もちろん生命があって初めて働くことができるので、自分の命を粗末に扱うのはよくない。
ただ、この2点を考える前に、もっと考えるべきことがあるだろう。
仕事を決める時に、必ず以下を守るべきと私は考えている。
・その仕事をするかしないか、最終決断は自分でする。他人に判断を委ねないこと。
・するかしないか決めたら、そのことに自分で責任を持つこと。
つまりは、肚(はら)に据(す)えよ、ということだ。
1 覚悟を決める。「―・えて難事にあたる」
2 がまんしてこらえる。心を落ち着ける。「あまりのことに―・えかねる」
どんなことでもそうだが、何かを行う際、自分で決めるのは、大人として、社会人として当たり前である。
そして、その決めたことに関して、自分で責任を負うのも当たり前である。
このことが分かっていない人が多い。
学生だけでなく、すでに社会で働いている大人であっても、覚悟のない人間が多すぎるのだ。
自分の人生は自分で決めることができる。
そんな当たり前のことが意識されていない人も多い。
これは特に若い人、学生に多い。
就職の相談に乗ることが多いが、しょっちゅう出てくるのが、「親」の存在。
学生の就活に口を挟み、志望先企業についてあれこれ言う。
ちょっと待てよ、と。
その子の人生はその子のものであり、あなたの人生じゃないですよ、と。
子である学生も、親が口を出すことに、それほど強く抵抗していないケースがある。
「親と相談」といえば聞こえはいいが、「親に決めてもらっている」というパターンもあるのだ。
君の人生は、君が決めていいんだ。
君が決めるべきなんだ。
そんな風にアドバイス(えらそうに)することも多い。
組織に属して労働に従事するということは、その企業のために働くこととイコールです。採用時に締結された労働契約の下、企業から求められる働きを自身が発揮・提供することで、その対価としてお給料をいただく形。……ですが、言ってしまえば「それだけ」でしかありません。
もう、どうしてこんなことが言えるのか、理解に苦しむ。
雇用されて働くということは、その企業のためではあるが、イコールではない。
その企業の事業の先にある「客」のためであり、その先の社会のためである。
そして1周回って自分に還元されるものなのだ。
決して、働くことで対価として給料をもらうこと、「それだけ」ではない。
さらに言うと、対価とは給料だけではない。
金銭だけではなく、立場・ポストや、知識、経験、人脈、やりがいや働きがいもあるでしょう。
それらを無視して、給料をもらうだけ、という言葉がどれほど了見が狭いのか。
そんな考え方だからいつまでたっても「それだけ」で止まってしまい、やがて転職を繰り返すことになるのだ。
その考え方だと、何十年何百年仕事を続けても「それだけ」で終わってしまうことになる。
いったい何を求めて仕事をしているのか。
何のために生きているのか。
突き詰めて考えているのだろうか。
そういう意味で、覚悟が足りない、と思うわけである。
という感じでちょっとdisる感じで書いてみた。
決してこの記事主がどうのこうのと貶めるつもりはない。
ただ、似たような考え方の人が多いなと思う昨今。
気になったので書いてみた次第である。
プレジデント社
売り上げランキング: 51,012
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2007-07-12)
売り上げランキング: 13,508
日本能率協会マネジメントセンター
売り上げランキング: 109,502
岩波書店
売り上げランキング: 73,869
あさ出版 (2015-12-15)
売り上げランキング: 703
朝日新聞出版 (2013-05-10)
売り上げランキング: 36,679
講談社
売り上げランキング: 95,218