【BOOK】『スクラップ・アンド・ビルド』羽田圭介:著 破壊と再構築は表裏一体


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本作は第153回(2015年)芥川賞を受賞、それを機に一時はメディアに露出しまくっていた羽田圭介さんの著作。分量は単行本で121ページとそれほど長くないせいか、入手してすぐに一気に読んだ。
読後感は、なんだか古めの日本映画を観たあとのような、独特のざらっとした感触が残った。
決して派手なストーリーではなく、字面を追っていくと淡々と進んでいく物語だったが、実は深い示唆を感じさせる作品でもあった。

第153回芥川賞受賞作

「早う死にたか」
毎日のようにぼやく祖父の願いをかなえてあげようと、
ともに暮らす孫の健斗は、ある計画を思いつく。

日々の筋トレ、転職活動。
肉体も生活も再構築中の青年の心は、衰えゆく生の隣で次第に変化して……。
閉塞感の中に可笑しみ漂う、新しい家族小説の誕生!

引用元:Amazon – スクラップ・アンド・ビルド | 羽田 圭介 |本 | 通販

一貫して主人公「健斗」の一人称で進む。
28歳の健斗は新卒で5年ほど務めたカーディーラーを激務のため退職し、行政書士の勉強をしながら、時々再就職の面接を受けながら、同居する祖父の介護に勤しむ。
88歳の祖父は寝たきりではないものの、アルミの杖で家の中をゆっくりと動き、毎日「もう死にたい」と口にする。
ラスト近くまで、ずっとこの関係性が続いてゆく中で、健斗と祖父とが対照的に描写されていき、次第に「スクラップ」と「ビルド」が交錯し、葛藤する。

ーーーーー以下、ネタバレ注意ーーーーー

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それはスクラップなのか、ビルドなのか

若い健斗は前半では花粉症に苦しみ、たまに合う彼女ともラブホを割り勘し、早々に果ててしまうという、未熟で頼りない、自己中心的な存在として描かれる。
家では花粉症のためパソコンでの勉強も手に着かない、運動していないのでベッドで横になっても眠くはならない。
若いのに何もできない状態の自分が、まるで祖父のようだと考える。
毎日毎日、身体の不調を訴え、やるべきことなどほとんどなく、やりたいことは簡単にはできず、かといってこのまますぐに寿命が尽きるわけでもない。
そんな毎日を繰り返して行かなければならない状況が、まったく今の自分と重なって見えたとき、祖父の毎日の愚痴や訴えを、ちゃんと聞いてあげられていなかったのではないかと気づく。
そのうち、健斗は祖父に最高の緩やかな幸せな「尊厳死」を実現させるための行動を起こしてゆく。

その行動とは「被介護者の動きを奪う」こと。
友人で介護職の大輔が言う。

「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。筋肉も内臓も脳も神経も、すべて連動しているんだよ。骨折させないまでも、過剰な足し算の介護で動きを奪って、ぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから。要介護三を五にする介護だよ。バリアフリーからバリア有りにする最近の流行とは逆行するけど」

つまり、祖父がやれることを先回りしてやってあげる、おせっかいな至れり尽くせりの介護を行うことなのだ。

祖父の介護を甲斐甲斐しく行う毎日が繰り返されていく。
いつしかその行動が、健斗自身も気づかぬうちに自身の支えとなっていたのだった。

多くの人は、大人になると結婚して、パートナーの支えになりたがる。
子どもが生まれると、子どもを育てることで自分の存在意義を確かめたりする。
子どもがいなくても、ペットを飼うことで自分が必要とされている存在だと定義したがる。
人間とは、何かを支え、支えられることを本能的に選んでいるのかもしれない。


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自分自身に向き合うこと

健斗はあるとき、花粉症がひどくなり、ヘルパーさんと祖父が出かけていった日、それまで介護をすることで保ってきた「生産的な時間の潰し方」ができなくなった。
できることは運動くらい、ということでトレーニングとして走ることで、若い自分はとても恵まれていることを再発見してゆく。

おそらくここでは、運動がもっとも手っ取り早かったからそうなっただけで、運動でなくてもよかったのかもしれない。
絵を描くことでもいいし、楽器を演奏することでもよかったかもしれない。
自分自身と向き合う、という時間が必要だったのではないだろうか。

若い時期は、進むべき道に迷うものだ。
こういうとき、絶対的な正解はない。
だからこそ、自分自身で選び取ることが最も大事だと思う。
自分自身で選び取るには、ひたすら自分自身に問い続けるしかない。
問い続けて自分で答えを「決める」のだ。

そのためには自分自身とイヤでも向き合う必要があるのだが、ただテレビを視たりスマホをいじってゲームに興じたりしているだけでは、自分と向き合うことは出来ない。
自分のアタマで考える、という行為が必要なのに思考停止しているからだ。

自分のアタマで考えない人間は、成長しないし、進化もしない。
したがって、生き延びることは出来ない。

健斗とつきあっている彼女・亜美は、駅やショッピングモールでもエスカレーターには目もくれずエレベーターを目指す、という描写がある。
とにかく自分は疲れることはしたくない、という頑なな思考停止のなれの果てのような行動を、健斗は次第に疎ましく思い始める。

これは自分自身に向き合い、答えを求め続けている健斗から見れば、何も考えていない亜美の行動が苛つくのは当然のことだろう。
「足がむくむ」「太りたくない」と言いつつ、電車では空いた席があれば飛びつき、絶対に誰にも譲ろうとしない「ぽっちゃりな身体を作ってしまう豚のようなメンタリティーは心底嫌い」なのだ。


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何をスクラップして、何をビルドしたのか

健斗がスクラップ(=破壊)しようとしていたのは、いったい何だったのだろうか?
祖父の介護を通して、緩慢な尊厳死を叶えてやるという倒錯した願望は、スクラップだと言えるかもしれない。
弱い存在である祖父を死に向かわせるという行為自体はスクラップというベクトルを持っているが、果たしてそれだけだろうか。
弱い存在である祖父を介護することで、何も生産的なことをしていない自分自身に対する免罪符としていたとすれば、それはだらけた自分自身をもスクラップしていたといえるのではないか。
そしてそのだらけた生活から抜け出し、筋トレを続けることで、ビルド(構築)していったとも考えられる。
ということは、祖父がいてこそのビルドだった、とも言えることから、健斗は祖父をスクラップしようとする行為自体が、自身へのビルドだったということになる。

つまり、スクラップとビルドとは表裏一体のものであり、誰かをスクラップしているつもりが実は自分へのビルドだったり、自分をビルドしていると、誰かをスクラップしてしまっていたり。
筋トレで鍛えていく内に、怠惰な亜美が許せなくなってしまったように。

生と死の狭間で

スクラップとビルドの対称形は、突き詰めていくと「生と死」の問題に行き着くのか。
本書では、医療と介護の問題が度々描写される。
多くは、生命を維持することだけに異常なほどのコストと時間をかけている医療現場の問題や、被介護者の能力を介護のかたちで奪ってゆく介護現場のネガティブな表現だ。

どちらも、ビルドだと思っていた行いが、実はスクラップへの行為だったというメタファーでもある。
このスタンスは、本書全体を通じて一貫している。

生への執着は死へ近づくことであり、死は新たな生への出発点でもある。
本書のラストで健斗は医療機器メーカーの子会社への中途入社を勝ち取り、祖父と母と別れて茨城へ引っ越しをする。
一年ぶりのサラリーマン生活を前に不安を持ちつつも、一年前にはなかった自信も覗かせる。
やるべきこともなく、できることも何もなかった日々、部屋の白い壁を見つめるしかなかった時間「昼も夜もない白い地獄」に耐え抜き、抜け出した生活を振り返ることで自信を取り戻したのだった。

最後には希望を感じさせるラストで、読んだ私にも希望が降りかかるようだった。

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