【BOOK】『爆弾』呉勝浩:著 ルールを踏み越えられる「仲間」


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シンプルなタイトルだが、内容はえげつない、という評判だけを聞いていて、書店で見かけて即購入した。なるほど、評判通りえげつない。いや、えげつないどころか、ちょっとした問題作ではないかと思った。単に爆弾がしかけられて、それを警察が必死に捜査してなんとか爆破は止められた、といったチープなものではない。人間の心理、常識、正義感の瘡蓋をバリバリとめくり上げ、本当にそれって正しいのか? あなたにもこんな気持ちあるんじゃないのか? とラストまで揺さぶられっぱなしになる。そんな作品だ。

東京、炎上。正義は、守れるのか。

些細な傷害事件で、とぼけた見た目の中年男が野方署に連行された。
たかが酔っ払いと見くびる警察だが、男は取調べの最中「十時に秋葉原で爆発がある」と予言する。
直後、秋葉原の廃ビルが爆発。まさか、この男“本物”か。さらに男はあっけらかんと告げる。
「ここから三度、次は一時間後に爆発します」。
警察は爆発を止めることができるのか。
爆弾魔の悪意に戦慄する、ノンストップ・ミステリー。

引用元:爆弾 | 呉 勝浩 |本 | 通販 | Amazon

本作品の主人公は誰なのか、と言われるとなかなか難しい。強いて言えば「スズキタゴサク」と彼を取り巻く人々の群像劇、となるだろうか。重要なキーパーソンと言ってもたくさんいるので、なかなか絞りきれない。とはいえ、頭一つ抜けているのは野方警察署の等々力(とどろき)刑事か。

等々力は非常に不安定なキャラクターとして描かれている。犯罪者を捕まえて手柄を立てようという熱い行動力があるわけでもなく、かといって、警察官としての規律を守っていればいいというサラリーマン的刑事とも言い切れない。人間としての背景を持った、陰のある人物として描かれている。

三章からなる本作品では、章の中の節ごとにそれぞれ違った登場人物の視点で描かれている。等々力だけでなく、野方署の鶴久、伊勢、幸田、矢吹、捜査一課の清宮、類家など。同じ事件を時系列で追いつつ、違った視点での記述によって、物語はより複合的に立体的に構築され、厚みと深さを醸し出している。

ネタバレ注意



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誰の中にもある「悪」とそれを抑える理性としての「善」

本作品において一貫したテーマとも言うべきものがあるとすれば、終盤に披露される一編の詩に凝縮されているのかもしれない。

人といふ人のこころに
一人づつ囚人がゐて
うめくかなしさ

啄木の詩集『一握の砂』に収められている詩である。

啄木は人というものは、例外なく「死」へ向かう存在であり、そうした宿命からは逃れられないということを、どこかでみんな知っていて、不安がつきまとい呻いている、という意味で歌った、とされているらしい。

本作品においての意味合いは、どうだろうか。
スズキタゴサクは言う。

「でも、爆発したって、べつによくないですか?」

どこでだれが爆弾で死のうが、自分には関係ない、という。
そしてそれは刑事である等々力や清宮も同じではないか、と。
等々力はそれを否定する。目の前で人が倒れていたら、助けようとして救急車くらいは呼ぶのは、誰でもすることだと。
すると、スズキタゴサクは屁理屈をこねる。
目の前じゃないとだめなら、今自分の目の前には刑事さんしかいないから、刑事さんのことだけを気にしていればいい、ということになる。だから爆発して誰が死のうがかまわない、という論理だ。

啄木の『一握の砂』の一編の詩でうたわれている「囚人」は、そうした誰の心の中にも巣くっている傲慢な想いを指す。建前では人は助け合わなくてはならないと言いつつ、全人類を一人で助けることなどできないのだから、目の前のことで精一杯でも仕方がない、という言い訳。その言い訳を正当化する心の中の小さな「悪」があること。自覚している「悪」に囚われて、呻いているのだ。
「人といふ人のこころに一人づつ囚人がいてうめくかなしさ」啄木 – 〖 啄木の息 〗


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命の選別

だからこそ、それは突き詰めていけば「命の選別」に行き着く。
スズキタゴサクは捜査一課の清宮に向かって、問題はあなたがきちんと選べるのか、ということだという。
爆弾の場所を仄めかすクイズを出題し、場所が分かった時点では、どちらかしか救えないよう仕組まれてしまう。決断までに時間がなく、どちらかを選べばどちらかを見捨てることになる、まるで「トロッコ問題」である。
「トロッコ問題」とは、多数を助けるためなら一人を犠牲にしてもよいのか、という倫理的ジレンマを考える思考実験のことだ。
制御が効かない暴走トロッコが進む先には、五人の作業員がいる。進行方向を変えるレバーの前に立つあなたがレバーを引けば線路が切り替わり五人を救うことができる。しかし切り替えた先にいる一人の作業員が犠牲になってしまう。このとき、あなたはどうするのか、という問いだ。
答えの出ない「トロッコ問題」を考える…回答による傾向と回答例|資産形成ゴールドオンライン

清宮はスズキタゴサクは関係のない市民を爆発の犠牲にしてもかまわないと考える「悪」であり、警察はそれを守り救う「正義」であると信じて疑わない。しかし、実際には爆発の犠牲になるのは、子どもとホームレスであれば子どもを救うという決断を警察である自分自身が下した時点で、「悪」と同じではないかと愕然とする。

医療の現場であれば、「トリアージ」という考え方がある。
救急事故現場において、患者の治療順位、救急搬送の順位、搬送先施設の決定などにおいて用いられ、患者の重症度に基づいて、医療・治療の優先度を決定して選別を行うことである。
それらは全て標準化が図られ分類されているという。
トリアージ – Wikipedia

では、現実社会の中で、街中のどこかに爆弾が仕掛けられているとき、いったい誰を優先して避難させるのが正解なのか? 仕掛けられている場所が分かったとしても、付近の住民数千数万人を一斉に避難させることは現実的にはできない。では、誰から避難させればよいのか?
答えは出ない。正解などないだろう。
本作品は小説というフィクションでありながら、圧倒的なリアリティで読者を翻弄する。リアルではなく、リアリティだ。リアリティのほうがより現実味を帯びていると感じてしまうのは、なぜだろうか。

ルールを越える心のかたち

図らずも「命の選別」を行ってしまった清宮は、次第に追い詰められていく。

殺したほうがいいのかもしれない。その思考があまりに静かで、自然で、清宮は真っ白な気持ちでスズキを眺めた。そのとおりだ。おれはあの一瞬、規則のラインを踏み越えておまえの指をねじり折ったとき、たしかに充足を覚えた。言葉では足りない充足だった。心の底に沈めていた欲望。封じ込めていた野蛮な衝動。こいつは仲間ではないという確信が、それを許可した。

警察官である「正義」である自分が、スズキタゴサクの指をねじり折るという暴行を犯す。その思考の過程で「規則のラインを踏み越え」た。それが、清宮の「心のかたち」だとスズキタゴサクは言うのだった。

スズキタゴサクの取り調べ室からは外され、周辺の捜査で動く等々力もまた、「命の選別」と同じジレンマを感じ続けている。

仲間じゃないから殺してもいいと考える男と、仲間の仇だから殺すのも仕方ないという思想が、等々力の中で混じり合い、落ち着かない色味を醸しだしていた。どろどろの絵の具がグロテスクな抽象画となり、その支離滅裂さは、同時にある調和を形づくって、色味と色味の狭間で自分は息を止めているのかもしれなかった。無差別殺人の絵の具と、報復の絵の具はちがう。法に照らせばおなじ違法行為でも、たしかにちがう。直感的に、そのちがいは明白に思える。だがつぶさに絵の具を、絵の具の粒のその粒まで見つめていけば、ほとんど変わらない粒子にたどり着く気もするのだった。


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人としての「内側」を見せることができるのが「仲間」

その倫理観のジレンマの中で、次第に事件の輪郭が捉えられていく。等々力の元上司・長谷部有孔の存在を回顧していく過程で、等々力は自分でもはっきりと自覚できていなかった、もうひとつのジレンマに気づく。
リスペクトしていた上司の誰にも言えない恥部を知り、それをどう処理していいのか分からずふらふらと揺れ続けてきた等々力の心の内側にへばりついていた感情。それは「人としての内側を見せることができる仲間」として、元上司を見ていた故の葛藤だった。

初めての経験だった。これほど苦しい胸の内を明かされたこと。刑事としての自分にでなく、人間としての等々力功に長谷部は語っている。思い込みであったとしても、そう信じられた。
なぜ、自分は長谷部を擁護したのか。「気持ちはわからなくもない」と危ういコメントを記者に発したのか。
いま、ようやくはっきりと言葉にできる。彼は仲間だったのだ。おれにとって、ルールを踏み越えるに値する、ひとりの仲間だったのだ。

新型コロナウイルスの影響で、ソーシャルディスタンスという言葉も生まれた。人と人との距離感が以前とはガラッと変わってしまった。これが人間関係に作用しないわけがない。但でさえ希薄になりがちだった都市部での人間関係がさらに希薄化へと加速した。今という時代は、人としての「内側」を見せることができる「仲間」が生まれにくくなっており、同時に「内側」を見せられる資格を持つことも機会損失しているのだ。

これがどういう意味を持つのか?
それは「命の選別」に直結している、ということなのだろうと思う。
つまり、「仲間」でなければ、死んでもかまわない、という思考回路を持つ人間が大量に発生しつつある、ということを意味しているのだ。

抽象度を上げて考えれば、スズキタゴサクという存在は、コロナ禍での市井の人々のなれの果て、とも考えられる。
人間関係が希薄化し、目の前の人だけをとりあえず気にしていればいい、という短絡的思考のなれの果てを象徴しているのが、スズキタゴサクなのだ。

人は一人では生きていけないという真理

漫画『ここは今から倫理です。』の中で、資本主義と社会主義をテーマとした回がある。

例えば貴方たちが何もない山のふもとで暮らすことになったとして
さて野菜を作らなければ
一本二本大根を作っても冬は越せませんから
広い畑を耕してたくさん大根を植えなくてはなりませんね?

二人じゃ無理ですよね
二人の家族全員を合わせたとしてもまだ足りない・・・
そこで手伝ってくれる人たちを探し・・・増やしていけたなら・・・

そこはやがて村になる
村人はみんなで協力して畑を耕し
不作の時は働き手を減らさないために
村人の間で少ない食物を分け合って冬を越す

それって・・・まるで社会主義
でも、昔の人々はそうやって生きてきた

資本主義か社会主義かは問題ではなく、人は一人では生きていけないという真理を、理解出来ない人間がどんどんと増殖しているのが、今という時代なのかもしれない。
その恐ろしさは、”リアリティ”のある恐怖ではないだろうか。

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