【BOOK】『一億円のさようなら』白石一文:著 置かれた場所で足掻くのが人生

burned 100 US dollar banknotes
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人生いろいろ。夫婦、子供、会社、仕事、いろんなことが交わりながら、一人の人生を形作っている。
自分自身で決断して積極的に選択できることは、そう多くはない。
むしろ周りに合わせて、流されて、何となく選んでしまっている道の何と多いことか。
それでも、ああよかった、と思えるためには何が必要なのだろうか。
お金か? 家族か? 生涯の伴侶か? それともやりがいのある仕事だろうか?
答えはひとつではない気もするし、それが正しいのかさえも今はわからない。
きっと、何が正しかったのかを知るのは、死ぬ間際なのだろう。
それまでに、どう生きるか。
そんなことを考えることができた、極上の傑作だ。

一億円のさようなら (文芸書) | 一文, 白石 |本 | 通販 | Amazonより引用:

連れ添って20年。発覚した妻の巨額隠し資産。
続々と明らかになる家族のヒミツ。
爆発事故に端を発する化学メーカーの社内抗争。

俺はもう家族も会社も信じない――

いまを生き抜く大人たちに贈る、極上娯楽小説

加能鉄平は妻・夏代の驚きの秘密を知る。いまから30年前、夏代は伯母の巨額の遺産を相続、そしてそれは今日まで手つかずのまま無利息口座に預けられているというのだ。結婚して20年。なぜ妻はひた隠しにしていたのか。
そこから日常が静かに狂いはじめていく。もう誰も信じられない――。鉄平はひとつの決断をする。人生を取り戻すための大きな決断を。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

close-up photo of assorted coins
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「お金」とは何か?

物語は20年連れ添った妻が巨額の資産を保有していながら、夫である自分にはずっと知らされていなかったことが発覚することから始まる。
その額、48億円。宝くじが当たってもこんな巨額にはならない。
これほどの金額が自由になるのであれば、人生におけるほとんどのことはお金で解決できるだろう。
だが、実際にその金額を手にしてしまうと、意外とどう使ってよいのか、慣れない者には皆目見当もつかないのだ。

五分ほど歩いて大通りに出ると、タクシーを拾った。
「贅沢」の二文字を頭に浮かべて真っ先に思いつくのは「タクシー」だ。

バッグの口を開け、封帯のかかったままの札束からピン札を一枚抜いて勘定書と一緒にレジに差し出した。レジスターに表示された金額は二千八百七十円也。七千円のほかに小銭まで戻ってくる。
──こんなに贅沢な昼飯を食って三千円も行かないとは……。
いささか力抜けした気分になって店を出た。

主人公・加能鉄平は、いざ意気込んで街へ繰り出したものの、大してお金を使うことができないのだった。
おそらく、私も同じような境遇に陥れば、似たようなものだと思う。
大金を手にすれば、いい車を買おうとか、豪勢な食事をしようなどと考えるが、高価な車を購入すればメンテナンスや維持費にもお金がかかる。
若い頃はそういった仕組みについての知識がなかった。だが今ではそうした維持することや始末することにも想像を巡らすことができるようになり、だからこそ買うことに躊躇する。
食事に関しては高いものを食べようというよりは、美味しいものを手早く食べたいと考えるので、高級レストランよりも一風堂でラーメンを啜る方が性格的には合っていると思う。
高いモノを買えばその分管理にもお金がかかる。例えば不動産を所有したら固定資産税を払わないければならないように。
高いモノを食べると、健康への影響も気をつけなければならないし、そのためのコストもかかってしまう。もちろん安いものでも健康には気をつけるべきだが。
結局、お金というものは、使い方を分かっていないとすぐになくなってしまうのだが、誰もその使い方を教えてはくれない。

だが、あるとき、彼はその話をしたあとで、
「でもね、加能さん。実はうつ病を治すもう一つ別の特効薬があるんだよ。本当はそれさえあればほとんどのうつ病患者はあっという間に治ってしまう。その特効薬って一体何だと思う?」
とにやにやしながら訊いてきたのだ。
鉄平は相手の顔を見ながらしばらく考えて、
「もしかして、お金ですか?」
と言った。すると医師はますますにやつきながら大きく肯き、
「正解。「お金だったら幾らでも欲しいだけやる、きみはもう一生お金で苦労することはなくなったんだ』と断言してやれば、どんなうつ病患者だってたちどころに良くなっていくと思う。お金ほどこの病気によく効く特効薬はないと僕は考えているんだよ」
と言ったのだった。

お金があれば、人生における不安リスクを感じることは少なくなるので、それだけでも幸福感を感じやすくなれるだろう。
実際に幸福かどうかは、本人がどう感じるかだから、結局のところ、幸福「感」が大切。
幸福感は自己肯定感やハラスメントと似たようなもので、本人がどう感じるかがほぼ全てだ。
うつ病に限らず、不眠や怪我、内臓疾患であっても、お金があれば何とかなる、と思えること自体が保険のような安心感を得られる装置として機能する。

鹿児島から戻った直後に大事故が起き、あの一億円をどうするかなど考える余裕はなくなってしまっている。
―たとえ何十億円、何百億円を積んでも青島の意識が戻るわけではない。
そう考えると、人の生き死にだけは金の力ではどうにもならないのだ、と改めて実感する。

ただ、命の境目だけはお金であっても超えることはできない。
お金は万能ではなく、越えられない壁は確実に存在するのだ。
そんな当たり前のことを当たり前だと思える内はまだいい。
それが思えなくなっていたとしたら、その時はもう人生の決定的な何かを失っている時なのだろう。

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「もう一人の自分がいる」という感覚

自分自身を斜め上から俯瞰して眺めている感覚、とでもいうのか、「メタ視」と言って伝わるのかどうか、ともかくそういった感覚は自分だけではなかったのだなということが確認できたのは収穫であった。
今でこそそれほど感じないのだが、若い頃は常にもう一人の自分が自分を監視しているような感覚があった。
何をやっていても常に「そんなことしたら恥ずかしいだろ」「何やってんだよ」という無言の声が聞こえてきて、何をやるにも一瞬躊躇してしまうような、そんな経験があった。
思春期特有の自意識過剰、と言ってしまえばそうなのかも知れない。
歳をとるにつれ、だんだんとそういった感覚は薄まっていった。
いや、薄まったというよりは、仕事や他にやるべきことが増えすぎてしまい、もう一人の自分を気にするだけのリソースすら使い果たしてしまう日々が続いた結果、もう一人の自分を気にすること自体を忘れてしまっていたのかも知れない。
そうして、歳をとって、本作を読んだことでまた思い出してしまったのだった。

その理由は一つだった。
自分には宅磨の邪悪さがはっきりと分かるのだ。
では、どうして自分にだけそれが分かってしまうのか?
そこから先を考えるのを、鉄平はいまのいままで必死で避けてきた。だが、この日、宅磨の変わり果てた姿を見て、彼は本当の自分自身、もう一人の自分自身と正面から対峙しなくてはならないと痛烈に感じたのだった。
宅磨の邪悪さが手に取るように分かる理由も一つだった。
鉄平自身の中にも、あの高松宅磨と同じ資質がしっかりと根付いているからに他ならない。

何時いかなる時点でもまるでライトのスイッチでも切るように切断してしまうことができるのだ。
高松宅磨とはそういう人間だった。
自分にも似たような側面があるのを鉄平は知っている。
だが、彼はそうやって自らの感情のスイッチを欲望のためにあっさりOFFにするような真似は絶対しないように心がけてきた。
―どんな理由があったにしても、共感や思いやり、同情や憐憫といった感情のスイッチを切った瞬間、人間は人間でなくなる。
鉄平はそう考えているからだ。
軍人や政治家のなかにはその種の〝感情スイッチ”を手に握りしめ、利己心を満たすために容易く切ってしまう者が大勢いる。そして、自分が決して邪悪だと疑われないように最も巧みにスイッチを切る方法を身につけた者だけが、権力者として最高の地位を獲得できるのだ。

主人公・加能鉄平や高松宅磨、木内正胤といった「いざという時に感情スイッチをOFFにできる人間」が登場する。
ここでは、感情スイッチはONが常であり、いざという時にOFFにする、という風に見受けられるが、実態はおそらくもうちょっと複雑だろう。
ONでもOFFでもなく、ニュートラルな位置が常であり、いざという時にONにするかOFFにするかが違うのではないかと思う。

たしかに、高松宅磨や木内正胤、川俣善治郎のような人間たちと喜多嶋オーナーとは全然違う──鉄平はそのことをあらためて再確認する。
従業員や妻に対して人を人とも思わないような態度を取ってはいても、喜多嶋オーナーの体内には間違いなく人間の血が通っている。だからこそ、こうして最愛の妻が病に倒れると、すべてを放り捨てて悔いのないような献身を示す。要するに彼のような人たちは自らの感情を表に出すのが不得手なだけで、いざとなれば豊かな感情を充分に周囲の人々に向かって注ぐことができるのだ。
翻って、高松や木内、川俣らはそのような人間関係における最も重要な局面において、 喜多嶋オーナーとはまったく真逆の態度を取ることができる。彼らはたとえ大恩のある相手であっても、それまで二人三脚で歩んできた伴侶であっても、自己保身や欲望の達成のために平気で切り捨てることができるのだ。
鉄平は、この世界には〝冷たい人間”などいないと思っている。彼らは〝冷たい”のではなくて〝冷たく見える”だけなのだ。
だがその一方で、ごく少数ではあるが、如才なく誰にでも優しそうな素振りを見せながらも実は身の毛もよだつような〝冷酷な人間〟が確実に存在していることもよく知っていた。
そして、彼はいままでずっと悩み続けてきたのだ。
──俺は一体どっちの人間なのだろうか?
と。

おそらくその時点では本人にはわからないことなのだろう。
生きてきた人生の結果として、OFFにする人間なのかどうか、生き様として証明しなければ表すことができないことなのだろうと思う。

person in red hoodie standing on snowy mountain during daytime
Photo by Joshua Earle on Unsplash

人生における「仕事」の意味とは?

人生において仕事のプライオリティは、いかほどだろうか。
若い頃は何をおいても仕事であり、仕事で結果を残すことでアイデンティティを示すことができると確信していた。
だが、人生は長く、そう思い通りに行くことばかりではない。
失敗し、挫折することで、仕事というものの重みが変わっていくのは普通だろう。
主人公・鉄平は50歳をすぎて妻に不信感を抱く。大きくなった子供たちも言う事を聞かず好き勝手に生きている。
会社も事故や内部抗争で先行きが見えなくなっていく中、全てを捨てて一からほとんど知らない土地で新しいことを始める。
やりたい事をやるぞと意気込んで始めた仕事、それが順調に進んでいるのに虚しいのはなぜかと自問する。

なぜだろうと鉄平は我と我が身を訝しみ、いろいろと理由を考えた。
最近になって分かってきたのは、自分は〝本当にやりたかった仕事”をやっていないから不満足なのではなくて、その仕事を “ちゃんとやっている”自信を持てないために充実感を得られないでいるのだ、ということだ。
原因は、「はちまき寿司」が鉄平の店ではなく、あくまで「創業者・表みゆき」の孫である表さんの店だからだと思われる。
実際それはその通りだった。
祖母の味を受け継いでいるのは表さんであり、 山下君を連れて来たのも、一緒に頑張ってくれているスタッフたちを集めたのもみんな表さんだ。鉄平がやったのは表さんを誘ったことと開店資金を提供したことくらいで、肝腎のその資金にしても夏代から受け取った一億円を使い回したに過ぎなかった。
いまの「はちまき寿司」に、鉄平がこれまで培ってきた営業マインドが反映されているかと言えば、ほとんど反映されていないと言っても過言ではない。
正直なところ鉄平は何もしていないようなものなのである。

仕事そのものが順調かどうかは関係がないのかも知れない。
仕事において、自分がどれだけ何をやったのか、その手応えを感じることができて初めて充足感が得られるのかも知れない。

就活を控えた大学生に、就活の支援をしたことがある。
若い学生の多くは、生きていくために仕方なく仕事をするんだと思っている。
仕事とはそういうレベルのものではない、と説いてきた。
だが、自分自身がどこまでそれを腹落ちしていたかというと、少々心許ない。
自分の中にも、生きていくための「ライスワーク」と、やりがいを求めた「ライフワーク」という区別はやはりあった。
だが「ライフワーク」は正直見つけていなかったし、今もってなおそれは無い。
だが、今は、たとえ「ライフワーク」が見つからなかったとしても、それはそれで構わないのでは無いかと思っている。
何が幸せかは、誰かが決めることでは無い、ということくらいは分かっているからだ。

family photo on green grass during golden hour
Photo by Jessica Rockowitz on Unsplash

「夫婦」とは? 「家族」とは?

「要するに、 それって全部おんな絡みの話でしょう?」
そのとき鉄平が念を押すと、
「おおかたはそうですけどね。ただ、どっちが先か分からない感じもあるんですよ」
「どっちが先?」
「ええ。おんなのせいでふわふわしてしまうのか、ふわふわしてるから、ついどうでもいいおんなにまで手を出してしまうのか」
「板長さん、そういうのをデラシネって言うんだよ」
「デラシネ、ですか?」
「そう。フランス語で根無し草っていう意味」
「そうなんですか……..」
それ 板長はデラシネ、 デラシネと何度か呟き、どこか納得したような面持ちになっていた。

日本語での「根なし草」という響きには少々ネガティブな意味合いが込められていると思う。
フランス語ではそれは、デラシネと言うらしい。

デラシネ – Wikipediaより引用:

デラシネ(déraciné)は、フランス語で根なし草、転じて故郷や祖国から離れたもしくは切り離された人を意味する。

根なし草、故郷や祖国から離れた人という比喩表現として鉄平が板長に伝えた言葉である。
ここではネガティブさはマイルドになっているが、かといってポジティブな意味合いでは使われていない。
この根なし草。現実にはネガティブな存在とは言い切れない。
「サルオガセモドキ」と言う植物がある。
見た目はほぼ白っぽい、やや緑がかった枯れ草のようなモジャモジャとしたもので、花でもなく草とも言い難いビジュアルである。
「エアプランツ(空中植物)」とも呼ばれるようだ。
学術的にはパイナップル科ハナアナナス属の植物で、本当に「根」が存在しない。
空気中の水分を吸収し、風で千切れて飛ばされても、どこかに引っかかったところで付着して、生き続けるという。
また、ただフラフラしているだけではなく、ちゃんと春先に小さな花も咲かせ、午前中だけいい匂いを放つらしい。
人間に置き換えてみると、なんとも主体性のない生き方になるのかも知れないが、多くの人の人生は案外こんなものかも知れないのだ。
「置かれた場所で咲きなさい」のような。

父は六十五歳で亡くなった。
最後の最後まで鉄平は彼のことが理解できなかった。「お父上はどんな方でしたか?」と問われてもちゃんとした答えを口にすることができない。
「まるで分からない人でした」
というのが最も適切な回答だといまでも思っている。
親子というのは案外そんなものなのかもしれない。美嘉や耕平だって、鉄平がいかなる人間であるかちっとも分かってはいないだろう。 子供というのは親を見て親を知るのではなく、自分自身の中に親を見つけて親を知るのだ。自らの体内に流れる血が、否応なく父親や母親との類似点を突きつけてくる。 要するにそういうことなのだろう。

パートナーのことがわからない。
自分のこどもたちですら、何を考えているのかわからない。
親のことも、分かっていたようで実は何も分かっていないことに気づく。
ただ、自分自身と向き合う日々のなかで、一つひとつ「自分の中に親を見つける」という感覚が、骨身に染み渡るようにわかる。
「親ガチャ」と言う言葉があるが、そんな事を言ったら人生全部ガチャである。
それでも、受け入れていくしかないのだ。
受け入れていく時間に足掻くことが、人生と呼ばれるものかも知れない。

カラスの世界は一夫一婦制で、夫婦となったカラスは共同でなわばりを守り、子供を産み育てる。一説では、一度つがいになったカラスは生涯、同じ相手と添い遂げると言われているのだ。
上空高く舞い上がり、互い違いになりながら仲睦まじそうに飛んでいく二羽のカラスの姿を目で追いながら、鉄平は、
──夏代は今頃どうしているのだろうか?
と考えていた。

人生に一つ答えがあるとしたら、それはずっとこの人と一緒にいたいと思える人が見つかるかどうか、だろうか。
異性でも同性でも、血のつながりがなくても、年が離れていても、生涯のパートナーと呼べる人がいるかどうか。
見つかったと信じて、その人に自分を信じてもらうために足掻くことが、大切なのかも知れない。

どんな状況にあっても、置かれた場所で信じたい人に信じてもらえるように、足掻いてみることが人生。
と思うことにしよう。

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