【BOOK】『わたしが消える』佐野広実:著 最後に残った記憶とは

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Photo by Marcos Paulo Prado on Unsplash

自分の記憶が徐々に失われていくとしたら、いま、何をすべきだろうか。
これまでのすべての記憶がなくなってしまったら、自分は「生きている」と言えるのだろうか。
たしかに「生きていた」という証を、まだ残っている記憶の限りを残した男と、
それを追う主人公とその家族が最後に見たものとは何だったのか。
本作は、自己のアイデンティティと社会に巣くう不条理な力との狭間で、本当に大切にすべきことは何かを考えさせられた傑作である。

わたしが消える | 佐野 広実 |本 | 通販 | Amazonより引用:

第66回江戸川乱歩賞受賞作!
綾辻行人氏(選考委員)、推薦。
「序盤の地味な謎が、物語の進行とともに厚み・深みを増しながら読み手を引き込んでいく」

元刑事の藤巻は、交通事故に遭い、自分に軽度認知障碍の症状が出ていたことを知り、愕然とする。離婚した妻はすでに亡くなっており、大学生の娘にも迷惑はかけられない。
途方に暮れていると、当の娘が藤巻を訪ね、相談を持ちかけてくる。介護実習で通っている施設に、身元不明の老人がいる、というのだ。その老人は、施設の門の前で放置されていたことから、「門前さん」と呼ばれており、認知症の疑いがあり意思の疎通ができなくなっていた。
これは、自分に課せられた最後の使命なのではないか。そう考えた藤巻は娘の依頼を引き受け、老人の正体を突き止めるためにたった一人で調査に乗り出す。
刻一刻と現れる認知障碍の症状と闘いながら調査を続ける藤巻は、「門前さん」の過去に隠された恐るべき真実に近づいていくーー。

残された時間で、自分に何ができるのか。
「松本清張賞」と「江戸川乱歩賞」を受賞した著者が描く、人間の哀切極まる社会派ミステリー!

軽度認知障碍で記憶が消えていく恐怖

主人公の元刑事で今は住み込みでマンションの管理人をしている藤巻智彦は、ちょっとした交通事故に遭い、頭を強く打ち付けたことで病院で検査をすると、軽度認知障碍と診断される。
妻とは訳あって離婚しているが、娘がひとりいる。迷惑はかけられない。
記憶力という点では、確かに物忘れはあるが、それが軽度認知障碍によるものなのか、単に加齢によるものなのかはわからない。
とはいえ、もし、この物忘れがひどくなっていったら、これからどうなっていくのか、不安にならざるを得ない。
その不安とは「自分がこれまで生きてきたという事実がなくなってしまうかのような恐ろしさ」だったり「家族や親しい人のことがわからなくなる悲しさ」から来るものだろう。

『明日の記憶』(荻原浩:著)という作品で、若年性アルツハイマー病が取り上げられていた。

49歳のヤリ手広告営業マンが取引先との打ち合わせを忘れるなどの物忘れがひどくなり、若年性アルツハイマー病と診断される。
『明日の記憶』では、夫婦の愛情を軸に描かれている。
愛情が記憶の積み重ねであるならば、記憶がなくなれば愛情もなくなるのだろうか、と問う作品だった。

認知症と呼ばれる症状には大きく4つのタイプがあるという。
アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症、レビー小体認知症、前頭側頭型認知症(ピック病)というらしい。
なかでもアルツハイマー型は、脳が萎縮していき、時間や季節、場所などの見当がつかなくなる「失見当」が起こるのが特徴だという。
本作『わたしが消える』では、アルツハイマー型の一歩手前の「軽度認知障碍」であり、まだ「認知症」とは区別されるようだが、当人や近しい者からすれば同じようなものだろう。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

person standing in front of body of water
Photo by Marc-Olivier Jodoin on Unsplash

自分が自分でなくなってしまうこととどう向き合っていくか

落語に『永代橋』という噺がある。
祭りの日、武兵衛(ぶへえ)は遊びにいく途中、永代橋で紙入れ(今でいう財布)をスられてしまう。
その日、永代橋が落ちる事故が起き、大勢の死人が出る。
その死人のなかに武兵衛がいるという。
しかし当の本人は生きているため、そこからてんやわんやの大騒ぎとなる、という噺。
本人が本人であるということを証明することが、いつの時代でも難しい。
そこにおかしさがあるのだろう。

「人間の脳はすべてを記憶している」という説を、藤巻の友人でありマンションオーナーの森康夫が言う。

「人間の脳って、生まれてからこのかた経験したことすべて記憶しているって聞いたことがあります。ただ引き出せないだけで、脳の中には、一生がまるまる閉じ込められているって。だから、まるっきり忘れてしまっていることが最後に残るかもしれない」

また、「最後まで残るってことは、その人を形作っていた魂みたいなものってことには、なるかもしれませんね」とも。

人は母親の胎内から生まれ出てから、外の世界にふれ、さまざまな刺激を得ながら、それらを吸収していく。
吸収した刺激は「記憶」として定着していく。これを成長という。
やがて記憶として定着させるだけでなく、自らが外界に対して刺激を与える側となり、愛情を育み、次の命を宿し、生み、育てていくのだ。
このとき、愛情となり得るのは、やはり記憶なのだろうか。
同じ空間で過ごし、同じ時間を共有していくことで、愛情が芽生えることは想像に難くない。
では、一目惚れなどは、どう説明できるだろうか。
一目惚れもやはり記憶と結びついているのだろうか。
科学的なことは分からないが、好きとか嫌いとかいう感情は、やはり過去の何らかの経験から学習した感情であるはずなので、記憶との関連は大いにあると考えていいだろう。

もし、パートナーの記憶が、これから先どんどん失われてしまうということがわかったら、どうするだろうか。
もうすでに記憶がなくなってしまい、あなたのことを認識できなくなったら、どうするだろうか。
記憶がなくなったら愛情も消え失せるとしたら、そんな「空白」には耐えられず、もうこれ以上一緒にはいられないかもしれない。
何十年連れ添っていたとしても、パートナーからは「初めまして」と言われてしまうかもしれない。

もし、自分だったらどうだろうか、と考えた。
妻が若年性の認知症になって、記憶がなくなってしまったら。
きれい事に聞こえるかもしれないが、やはり一緒にいることを選択するだろうと思う。
妻が何かをしてくれるから一緒にいるわけではなく、そこにいてくれること自体に感謝しているからだ。
こんな不出来な自分と一緒になってくれたのだから、感謝しなければ罰が当たりそうだ。

『明日の記憶」では妻はアルツハイマー病の夫が妻を認知できなくなったとき、はじめて夫の病気を受け入れることができ、出会い直した。
『わたしが消える』では、離婚・別居して20年もの間、妻はずっと黙って「呼び戻される」ことを願っていた。
愛想を尽かしたのではなく、藤巻の頑固さを認めて待っていたのだった。
それは、どちらかに「記憶」があれば、「愛情」は残り、その「空白」を満たすことが可能なのかもしれないことを示しているのではないだろうか。
そう思えて仕方がない。

2 men playing basketball in grayscale photography
Photo by Sivani Bandaru on Unsplash

社会をコントロールし、秩序を作るという思想

本作では「門前さん」はいったい何者なのか、という謎を追って、ストーリーが進む。
その過程で「門前さん」は犯罪に関わっているのではないかという疑惑が浮上。
それはどんな犯罪なのか。なぜ、いくつもの身分証明書を持っていたのか、という新たな謎が生まれてくる。

そして、公権力である「公安」と「警察」の後ろ暗い秘密に迫っていく。
高度成長期と平行して、各所で起こった学生運動を利用し、「緊張の戦略」として「社会をコントロール」する存在。
わざとテロなどを引き起こして政情不安をあおり、それに乗じて警察による治安維持をはかる。
警察の身分を隠して学生になりすまし、学生運動の活動内部に潜り込むなど、明るみに出てはいけない事情があふれ出してくる。

「門前さん」は社会をコントロールする側にいると思い込んでいたら、実はコントロールされていたことに気づく。
より大きな権力が、巧妙に仕掛けた心理的な罠に嵌まっていたのだ。
権力は、その強大な力に溺れることなく、大衆の安心と安全とを守るべき存在である。
という「当たり前」を盾に、大衆に気づかれることなく、権力を維持し続けられるよう、さまざまな罠を仕掛けている。
そうして、「すべて」をコントロールしてきたのだ。
だが、地震だけはコントロールできなかった。
阪神・淡路大震災と東日本大震災という2つの大きな災害によって、あらゆる歯車が少しずつ狂っていったのだろう。

本作は第66回江戸川乱歩賞を受賞している。
単行本末尾に江戸川乱歩賞の選考委員による選評が掲載されている。
皆、かなり辛口であるが、なかでもこの「社会をコントロールする」存在としての黒幕に、少々難があったようだ。
書籍化にあたっては加筆修正されているようなので、どの程度のものなのかはわからないが、個人的には気にならなかった。

著者、佐野広美さんは、1999年、主に歴史・時代小説の新人賞である松本清張賞を別のペンネームで受賞していたという。

本作『わたしが消える』は、非常に読みやすい作品だった。
わたしは大抵、複数の小説をランダムに読み進めるので、同時期に3〜5冊を読んでいるのだが、本作は読み始めてすぐに一気に引き込まれて、2日くらいで読み切ってしまった。他の作品も大変気になる作家さんだ。


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