【BOOK】『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ:著 助けてと声を上げ「呪い」を解く物語

whale's tail sticking out of the ocean during day
Photo by Richard Sagredo on Unsplash

「世界一孤独なクジラ」が歌う声は52ヘルツで響く。ただしその声は他のクジラには聞こえない。
助けてという声が他の誰にも届かない孤独を背負って、深い海を漂うそのクジラに、希望はあるのだろうか。
児童虐待、ヤングケアラー、ネグレクト、トランスジェンダーなど、助けてと声を上げても聞いてもらえない者の悲しみは、52ヘルツで歌うクジラそのものだ。
2021年本屋大賞受賞作。「自立」に必要な、たったひとつの「呪い」を解く物語。

52ヘルツのクジラは実在するのか



52ヘルツで歌うクジラの声は、1989年、ウッズホール海洋研究所 (WHOI) のチームにより発見された。
実在する、唯一の個体だという。
未だ正体は不明である。誰も実際に見たことはない。
ただ、その「声」は度々聴取されている。

通常、シロナガスクジラは10〜39ヘルツで、ナガスクジラは20ヘルツで鳴くという。
他のクジラも概ね15〜25ヘルツで鳴くらしい。
こういった低音は、少なくとも100km、最大で1000kmも届くとみられている。
彼らは海の中で、他の個体を視覚ではなく、聴覚によって認識するらしい。
52ヘルツで鳴くクジラは、他のクジラと比べても高音で周波数が違いすぎて、認識してもらえないようだ。
52ヘルツで鳴くクジラ自身も、おそらく他のクジラの存在を認識できずにいるのではないだろうか。
それが「世界一孤独なクジラ」と呼ばれる所以だ。

ただ、思うに、52ヘルツで鳴くクジラ自身は、他のクジラを見たことも認識したこともなかったとしたら、果たして自分が「孤独」だと感じるだろうか?
動物がそんな小難しいことを考えるわけがない、と言われればそれまでなのだが、同じクジラには認識してもらえなかったが、他の海洋生物に認識してもらえた可能性もあるのではないだろうか。
同じ海の中ではあるものの、同じクジラとのコミュニケーションができなくても、彼の声を聞いてくれる海の生き物がいたのではないだろうか。
だとすれば、彼はそれほど「孤独」ではなかったかもしれないと思うのだ。
泳ぐ場所を間違えた、というわけではないが、しかるべき場所でやるべきことをやる、といったスタンスでいれば、よいと思う。
「世界一孤独」と人間が勝手に決めつける必要はないし、こうしたラベリングも一種の「呪い」なのだろう。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

person wearing white low-top sneakers
Photo by Caleb Ekeroth on Unsplash

自立の物語

「自分の人生は自分の為にも使っていい」とアンさんは言う。
そのためには、まず「助けてと声を上げる」こと。
そもそもそれができなければ助けられる確率は上がらない。
そして、「助けてくれる人の手をちゃんと掴むこと」。
助けてくれる人の手を振り払えば、助けたくても助けられない。

主人公・三島貴瑚(きこ)は幼い頃から母親の愛情に飢えていた。
愛情の飢えを満たすためだけに、理不尽な要求をすべて受け入れ、自分の人生を家族に捧げる生活を過ごしてきた。
これだけなら、ブラック企業における若者への「搾取」の構造と同じである。
これにさらに、食事を満足に与えられないという「児童虐待」が加わる。
母親は再婚で、貴瑚は連れ子である。
再婚相手との間に生まれた弟・真樹は溺愛されているのに、姉である貴瑚は同じ食卓も囲めない。
必要な文具も買ってもらえない、身だしなみも汚く手入れをしてもらえないという「育児放棄(ネグレクト)」だ。
これだけにとどまらず、事故で寝たきり生活になった義父の介護までさせられる。
「ヤングケアラー」という社会問題である。

これだけの過酷な環境がそろったコンボはもはや「呪い」である。
「呪い」は本人が気づかないうちに心を蝕んでいる。
性格的には歪んだ人格が形成されてしまっても不思議はないかもしれない。

親に育ててもらったから、「恩」がある、これも「呪い」だ。
家族だから愛し合える、わかり合える、これも「呪い」だ。
親だから子どもは無条件に愛している、これも「呪い」だ。

十分に大人の年齢になった貴瑚は、それでも「呪い」の呪縛から逃れられない。
ここで自らの意思で「助けて」と言えなかったことが、大きな問題だろう。
結果的には周りが気づいたことで家族から離れることができ、徐々に心を回復させていく。

その後、自分で「助けて」と声を上げることが出来ず、周りに助けてもらっておきながら、自分を庇護してくれる存在と出会うと、貴瑚はそこにすべてを依存してしまった。
その浅はかな思慮の無さが、のちに自らを苦しめることとなる。
これは「視野が狭い」ことからくる、「幼さ」である。
「幼い」から「視野が狭い」とも言えるが、いずれにしろ、経験値を積むことで解消可能だ。
「依存する」ということは、「助けて」と言えるようになるためには、必要な通過儀礼だ。
ただ、経験値を高くする前に、自ら引き起こした「罪」の意識で潰れてしまうかもしれないという危険性も孕んでいる。

ひとりの人間が自立して生きていけるようになるまでには、いったいどれだけの失敗を繰り返せばいいのだろうか。
あわよくば、できるだけ傷つかない人生が過ごせれば良いと思うのは、贅沢なことなのだろうか。

貴瑚も少年も、逃げようと思えば逃げることができただろうに、どうして逃げなかったのか。
それは正常な判断ができる安全地帯にいるから言えるのであって、こういった状況に陥った者は正常な判断ができないから問題なのだ、といろんなケア団体からお叱りを受けそうだが、どうしてもそういう疑問が頭から離れない。
物理的に「助けて」と音声として言えなくても、大抵は身体的にアラートが出ていると思われる。
ここで問題なのは、本人にはそうした「自覚」が無いことが、逃げることに繋がらないという点だ。
だから、アラートを受け止める周りの理解と配慮が必要、ということなのだろう。
分かってはいるのだが、そうは言ってもやはり言ってもらわないと分からない、という感覚はどうしても残ってしまう。
大切なのは、限界まで独りで抱え込むのでは無く、助けてと声を上げること。
そして、差し出された手を振りほどかないことだ。
差し出した手を振りほどかれた側はたまったものではない。

2 person walking on gray concrete pavement
Photo by Suzi Kim on Unsplash

親という属性からの目線

貴瑚と出会った少年は、ありとあらゆる問題を抱えていた。
「児童虐待」「育児放棄(ネグレクト)」「介護/ヤングケアラー」である。
どうしても、当事者という目線ではなく、子の親としての目線で考えてしまう。

貴瑚の母親は貴瑚が生まれたときから虐待をしていたのだろうか。
そういった記述は無い。
おそらく、母親が義父と再婚するまでは、愛情を注いでもらっていたのだろう。
やがて義父と母との間に弟・真樹が生まれると、母親の愛情は弟に集中。
貴瑚はネグレクトされることとなった。
貴瑚の母親を擁護する気はさらさらないが、それにしてもここまで酷いものかと目を覆いたくなる。
子どもが悪いことをしたのであれば叱るなどの対応が必要だとは思うが、何も悪いことをしていないのに、躾と称した虐待が許されるはずが無い。
ここは読んでいて非常に不快に感じた(もちろんそれだけリーダビリティに優れた文体だったという意味だ)。

貴瑚の母親がここまで酷くなった原因はなんだろうか。
それは間違いなく義父であろう。
傍若無人で見栄っ張りで気難しい。
病気がきっかけで寝たきりになっても貴瑚に介護をさせ、呪いをかけ続ける存在。
この男が貴瑚の母親をおかしくしてしまったのは間違いない。

一方、少年の母親、琴美はどうだろうか。
琴美もまた、少年を産んだときには、精一杯の愛情を少年・愛(いとし)にかけていただろう。
だが、きちんとした「愛し方」を育んでこなかった琴美には、子どもを愛する方法がわかっていなかった。
自分の思い通りに事が進まないと当たり散らす。
愛が3歳のとき、舌にたばこの火を押しつけるなどの児童虐待があったという描写がある。

このような愛し方の分からない人間に、誰がしたのか?
言わずもがな、琴美の父親、ほがらか老人会会長の品城である。
琴美は叱られることもなく、思い通りにいかない思いをすることもなく、免疫が無いまま世間に出てしまい、当たり前の世間の壁にぶち当たってパニックになる。
そうして歪んだ、歪な愛情しか知らないまま、愛を産んでしまったのだ。

愛の父親はというと、愛が2歳のころに失踪(この場合は蒸発と言った方がいいだろうか)。
愛は父親の顔も覚えていない。

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Photo by Hunters Race on Unsplash

こうしてみてみると、いずれも「男親がクズ」ばかり、だということに気づく。
貴瑚の義父、琴美の父親・品城、愛の父親。
どうしようもないクズ人間である。

ついでに言うと、貴瑚が就職後に付き合った男、会社の専務である新名主税(ちから)もまた、クズである。
会社の跡取りで、金にものを言わせて貴瑚を囲い込む。
結婚は政略結婚で違う女性と結婚するが、貴瑚とのつきあいもやめないという。
平気な顔をして不倫を続ける根性もどうかしているが、その主税の父親もまた、当たり前のように不倫をする男だった。

本作に登場する男はことごとくクズばかりである。
まともなのは村の青年・村中と、愛の母親の再婚相手である秀治さんくらいだろうか。

では、女性親はどうだろうか。
アンさんがトランスジェンダーであることを、アンさんの母親は受け入れることができなかった。

「トランスジェンダーとは一般的に、性自認(こころの性)と身体的性(からだの性)が一致していない人全般を表す言葉」

自分の娘が男性としての性を生きることを受け入れられなかった。
いや、受け入れられなかったというよりは、無知だったというべきか。
無知だから、受け入れることが出来なかったとも言える。
アンさんは、自分の性自認が男性であることを、母親に言えなかったのだろう。
言えば、必ず母親は傷つき、半狂乱になってしまう。
そう思えば思うほど、言えなかったのだ。きっと。
こうした、親の無知による過度な期待もまた、呪いの一種なのだろう。

親というものは、いつの時代も変わらないのかもしれないが、現代という時代において、あまりにも過酷ではないだろうか。
子どもの成長は素晴らしく、何ものにも代えがたい喜びがあるが、それをもってしても、この過酷さはあまりにも釣り合わないのではないか。
若い人たちが結婚に二の足を踏んでしまうのも分かる気がする。

とはいえ、親も人の子、である。
誰もが親である前に子どもだった。
その子ども時代の記憶や経験が、大人になってきちんと成仏しなかったことで、虐待の連鎖が起きるとすれば、どうしたらその負の連鎖は止められるのだろうか。

私は、アンさんのように強くも無いし、やさしくもない(かといって貴瑚や愛よりは、搾取に対する抵抗力はあるつもりである)。
私は人間の意思の力をあまり信用していない。
だから、気持ちを強く持って生きていく、ということはいつか破綻するに決まっていると思っている。
こういうことは、システムで解決する方向で考える方がいいとすら思っている。
そして、システムによって「呪い」を生まない世界が作れる、という希望を持っている。

例えば、現在の「家」とか「世帯」制度を根本から見直し、すべて「個人」単位での社会制度を構築したほうがよいのではないかと考える。
税制度や戸籍制度もひっくるめて、社会を構成する最小単位を「個人」として規定し、「個人」を基点にした制度にするのである。
「個人」として、なにをどうしたいのか、例えば性自認をどうしたいのかも各個人で決める。
どこに住むのかも各個人が決め、誰と住むかも個人が決め、家賃も税金も各個人に対しての請求・徴収とする。
未成年においては、出生届を出す時点で、未成年後見人として最低4名の署名を必要とするとかで、家庭内DVに他者を介在させる仕組みとするとか。
未婚の母として出産する権利を保障し、但し子が成人するまでの18年間は、両親は公的機関から追尾される(体内にチップを埋め込む)こととするとか。

こうして、人間の意思力に頼ることの無い仕組みを構築しつつ、乳幼児の生命の安全を確保し、児童の保護を堅持する法制度もまた必要では無いだろうか。
(もちろん現実味が無いとか、この時代においては突飛なことを言っていることは自覚している)

子どもだから親の愛情がなければまともには育たないとか、親なんだから子どもを愛するのは当然だ、というのも「呪い」だと思う。
子どもだからといって、血のつながりがあるからといって、無条件で親を尊敬するなんてことはないし、親だからといって、子どもと同じ人間ではないのだから、考えも違うし、感情も違って当然だろう。
それをどういうわけか、血が繋がっているから、というだけでこうすべきああすべきと周りが干渉しすぎている、と感じることがよくある。
親と子どもは違う人間であり、違う人格を持ち、違う人生を歩んでいる。
そうやって少し、距離感を考え直すのもいい機会なのだろう。

自分は自分の人生があり、子どもには子どもの人生があるのだ。
それを忘れないように、意識していきたいと思う。


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