【BOOK】『六人の嘘つきな大学生』浅倉秋成:著 月の裏側もまた、月である

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就職活動という、人生においてもっとも嘘をつき、嘘をつかれ、自分を欺き、美辞麗句の海で溺れる経験ができる貴重な機会において、本当の自分とはどんな自分なのかを問い、追い詰められていく六人の大学生たち。
二転三転、良い人だと思っていた人が実は腹黒いところがあり、でもやっぱりあとから良い面が見えたり。
月の裏側のように、人が人を見ているのは、ほんの一面に過ぎず、人間とは実に多面的な存在であることを、巧みなストーリーテリングで描ききった快作だ。

六人の嘘つきな大学生 | 浅倉 秋成 |本 | 通販 | Amazonより引用:

「犯人」が死んだ時、すべての動機が明かされる――新世代の青春ミステリ!

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成長著しいIT企業「スピラリンクス」が初めて行う新卒採用。最終選考に残った六人の就活生に与えられた課題は、一カ月後までにチームを作り上げ、ディスカッションをするというものだった。全員で内定を得るため、波多野祥吾は五人の学生と交流を深めていくが、本番直前に課題の変更が通達される。それは、「六人の中から一人の内定者を決める」こと。仲間だったはずの六人は、ひとつの席を奪い合うライバルになった。内定を賭けた議論が進む中、六通の封筒が発見される。個人名が書かれた封筒を空けると「●●は人殺し」だという告発文が入っていた。彼ら六人の嘘と罪とは。そして「犯人」の目的とは――。

『教室が、ひとりになるまで』でミステリ界の話題をさらった浅倉秋成が仕掛ける、究極の心理戦。

嘘つきな大学生は以下の六人。

九賀 蒼太 慶応大 総合政策学部
袴田 亮 明治大 元高校球児
矢代 つばさ お茶の水大 国際文化
嶌 衣織 早稲田大 社会学
波多野 祥吾 立教大 経済学部
森久保 公彦 一橋大 社会学部

ストーリーに触れると何を書いてもネタバレになってしまいそうなので、極力ストーリーには触れずに書いてみる。

嘘つきなのは大学生だけなのか

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Photo by Jaroslav Devia on Unsplash

本作はタイトルに偽りあり、と言っていいだろう。
なぜなら、嘘つきなのは大学生だけではないからだ。
採用に携わる大人たちも皆、嘘つきなのだ。

仕事の関係で、大学生の就職活動を支援していた時期がある。
数年ではあったが、私自身が学生の頃に就職活動自体を経験していなかったため、一から情報を集め、勉強した。
日本独特の「就活」のメカニズムから、構造的な欠陥、課題・問題、そこから導き出せる学生への支援策を練った。
大学での授業形式のセミナーも行った。
企業研究、業界研究のレクチャーも行った。
グループディスカッション、グループワーク、アクティブラーニング的な取り組みも試行錯誤した。
授業以外での就活の相談全般も行い、個人面談を重ねた。
就活サイトへの登録、エントリーシートの書き方、インターンシップへの斡旋から、同行、アフターレビューまで、就活の始まりから終わりまで網羅的に関わった経緯がある。
なぜ、どのような経緯でそういう仕事をしたのか、についてはここでは書けないので割愛する。

そういう仕事から離れてすでに5年以上経つ上、コロナ禍での期間(まだ終わったわけではないが)があったので、現状はまた少し変わってきているとは思うが、根本的なところはあまり変わっていないように感じている。

本作にも同様の表現があったが、就活は学生と企業との嘘の付き合い、騙し合いである。
ここだけを切り取って見ると、実に滑稽で救いようのない世の中であるように見える。
だが、現実は学生も嘘をつきたくてついている訳では無く、企業も嘘をついているという自覚がない場合がほとんどである。
「嘘」といっても、明らかに相手を騙そうとする意図があるというよりは、必要に迫られて「取り繕っている」と言った方がいいだろうか。
学生は、自分がいかに素晴らしい人間であり、入社すればどれだけ貢献できるかをアピールするしかなく、企業は採用枠が限られている中で、いかに「優秀な」学生を効率よく採用するか、内定を出しても辞退されないようにアフターフォローをこまめに行うなかで、自社のアピールポイントを誇張する。

なぜそのような一見不毛な嘘のつき合いをしなければならないのか。
それは、日本における「就職」が「就社」になっているということと、いったん「雇用」してしまうと、よほどのことが無い限り「解雇」できないという制度上の問題があるからだ。

日本の「就活」の問題だらけの実態

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Photo by Ruthson Zimmerman on Unsplash

まず「就職」が「就社」になっている、という点は、読んで字のごとく「職」に「就」くと呼んでいるが、実際には「社」に「就」いているという現実を示している。
つまり会社に属することが目標になっているので、とにかくなりふりかまわず「入社」することを最優先する。
こうした採用手法を「メンバーシップ型」などと呼んだりする。
会社という組織の「メンバー」になって、その中でさまざまな「仕事」を行う。
時には組織の都合で、向いていない仕事もすることになる。
だが、「メンバー」でいることで、安定的にサラリーを得ることができる。

一方で、欧米社会では「ジョブ型」採用が一般的と言われている。
予め「ジョブ=やるべき仕事」が定められていて、その契約に基づいて、まさに「職」に「就」く。
契約時に定められていないジョブは引き受けない。
現実にどこまで明確に線引きをして、引き受ける受けないという判断によって、仕事の効率がどうなるのか、といったことは測りにくいが、仕事とプライベートを明確に分けることが一般的な考え方であれば、契約上の仕事をきっちりやって、あとはプライベートの時間を過ごすことが可能になるだろう。

「メンバーシップ型」と「ジョブ型」のどちらが良いか、という問題は、それぞれの社会が抱える問題意識にもよるし、どちらにも一長一短あると思われる。

日本における採用活動では前述の通り「メンバーシップ型」を前提として、「優秀な学生」を採用することが人事部に課せられた使命である。
ここで言う「優秀な学生」とは、会社組織の「メンバー」として相応しい、和を乱さない、周囲との協調性の高い、気配りができ、積極的に仕事に邁進する、といった人物像である。
現実的に会社で行う仕事(業務)ができるかどうか、はこの時点では問わない。
というか、最初はできないものとして、入社させてから指導していくことが前提となっている。
これは、日本の教育行政の問題でもある。
日本の教育において、義務教育後の高校、大学といった高等教育では、学問的な意味での学びが重視されており、社会に出てから仕事をする、ということに対するケアはほぼ無いに等しい。
義務教育から高等教育においてはずっと学問的な勉強だけをやってきて、就活になると途端に「ガクチカ=学生時代に力を入れたこと」として自己アピールをしろと言われ、無理矢理自分の良い点を見つけ出す必要に迫られる。
これまで勉強を頑張ってきた人ほど、アピールする材料など他にない。
そこで無理矢理にボランティアをやってみたり、バイトでバイトリーダーをやったと言ってみたり、サークルでまとめ役をやったなどと言うしかなくなる。
特に昨今のコロナ禍では、バイトもサークルも制限され、いよいよ何も「ガクチカ」に書けることなど見つからないという現実に苦しんでいる学生が多いという。

今のところ、日本企業の多くは「メンバーシップ型」採用を続けるだろう。
一部の大企業では「ジョブ型」採用を推し進めると言っているが、実際にきちんと機能するのかどうかは怪しいものだ。
農耕民族時代から脈々と続いてきた「和を以て貴しとなす」精神は、そう簡単に変わるとは思えない。


もし、本当にジョブ型採用が一般化するとしたら、日本の「新卒一括採用」とは相性が悪いので、いずれ淘汰されていくことだろう。
なぜなら、ジョブ型では「何ができるか」を問われ、実際に仕事(=業務)ができることが必須条件となるからだ。

メンバーシップ型で見られたような「優秀な学生=組織に入っても仲良くやっていける人」であるかどうかは、優先度が下がる。
今のように、嘘をつく必要性はあまりない代わりに、いかに仕事ができるか、実際にできることを証明する必要がある分、厳しいとも言える。
多くの企業は、何の仕事の能力も無いまっさらな学生を入社させ、先輩社員などがOJTで仕事を教えていくことを前提としているが、ジョブ型になれば、そういった指導は必要なくなる。
入社した人は何も教えてもらえない上に、契約で定められた成果を出すことを求められる。
現在の大学生は、そのような採用方法ではほとんどが仕事に就けないだろう。
そういう意味で、厳しいと表現した。

日本においては、ジョブ型採用にシフトチェンジすれば全てうまくいくわけではなく、仮に変わっていくとしても、かなりの時間がかかってしまうことだろう。
それほど、問題の根は深いところにもあると思う。

人間は多面的な生き物

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Photo by Frederik Merten on Unsplash

テレビでニュースなどを見ていると、何らかの事件の犯人が逮捕された後、何故犯人は犯行に及んだのか、といったコメントが必ずと言っていいほど見られる。
そして犯人の過去を調べ、交友関係からコメントを撮り、過去にあったとされるネガティブな情報と結びつけて、犯人はこういう人間だった、こういうことをよく言っていた、だから今回のような犯行に及んだのだろう、と締めくくる。
視聴者はそれを見て、納得した顔で、ああこわい、こういう人だったんだ、だからこんな恐ろしい犯罪を犯したんだ、と理解する。

いつも思うのだが、果たして人間とはそんなにも単純だっただろうか? と。
自分だけで無く、他の多くの人も同様だと思うのだが、人は相対する人に併せて、それぞれ違う人格でコミュニケーションを行っているのではないだろうか。

平野啓一郎さんの「分人主義」という考え方を説いた『私とは何か――「個人」から「分人」へ』という本がある。

これまでは、これ以上分けることができない存在という意味で「個人」がその人の中心に鎮座しており、相手によって「仮面」を付け替えている、と考えられてきた。
近年、生きづらさを訴え、自分を愛せない人たちがクローズアップされてきたように思う。
それは「個人」という概念がもたらす副作用ではないか、という考え方を提唱されている。
相手によって「仮面」を付け替えていくことで、中心に鎮座している「本当の自分」との間にギャップが生まれ、その結果「本当の自分」が望む人生を生きていないことから、自己嫌悪に陥っているのではないか、と述べられている。

一方で、分人主義では、中心に「本当の自分」という概念は存在せず、いくつもの「顔」を持つ集合体こそが「自分」である、という概念である。
対人関係によって、いくつもの「顔」を使い分けるが、どれも自分の一部分であり、相互に密接にリンクし、アップデートされていくという考え方だ。
ある人とはフランクに下世話な話もするが、ある人とは緊張感とある程度の距離感を持って接する。
どれも「本当の自分」であり、時と共に変化し、互いに影響し合う。
全て本当の自分なので、やっていることとの間にギャップが生まれることが無い。

就職活動において、仕事の出来る、有能な大学生としてアピールすることは、一見「嘘をついている」と見ることもできる。
だが、分人主義的な考え方では、そのアピールも「本当の自分」であり、まったく別のものではない。
取り繕っているというわけでもなく、そういうアピールをすることを(自分で)選んだ、という意味で「本当の自分」の決断によるものなのだろう。

大学生に限った話ではないのかもしれない。
社会人になっても、転職などで面接をするとなれば、誰でも多かれ少なかれ、自分をよく見せよう、という意識が働く。
それを「嘘をついている」と捉えるか、「本当の自分」の一部分を見せていると捉えるか。
前者であれば、自分を追い詰めることにもなり、苦しくなるだろう。
後者であれば、結果への責任は受け止めなければならない。

人間は多面的なものだと受け入れることとは、すなわち、月の裏側もまた、月に変わりが無いということを認めることだ。
そうすることで、人生を切り開いていくことができると思うが、一方ではそういった「覚悟」も必要なのだろう。
本作の登場人物たち、六人の大学生たちが、就活を通して、社会に出て仕事をしていく中で、様々な人と関わりを持つことで、人間の多面性を感じ、成長していくことができればいいな、と、最後は親のような目線で読み終えた。


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