2026冬クールは残念なクールだった
期待して第1話を観た『夫に間違いありません』『身代金は誘拐です』『冬のなんかさ、春のなんかね』『おコメの女』『探偵さん、リュック開いてますよ』『ラムネモンキー』は、ことごとく失望してしまった。
ドラマはいい悪いというよりは、好き嫌いで判断すればいいので、単純に私の好みの問題なのだが、続きが見たいとは思わなかったため、1話で脱落した。
なぜ脱落したのかというと、それはもう「リアリティラインが足りていないから」ということに尽きる。
「リアリティライン」とは何か?
“現実感”というと抽象的だが、例えばドラマの登場人物たちが本当に存在しているかのような感覚、とでもいえばいいだろうか。
ドラマはフィクションなので、当然、本当に登場人物が存在するわけはない。それはもちろん分かっている。
ドラマの世界と現実の世界を混同しているわけではない。
ドラマはドラマの世界があり、ただその世界の中に、本当にこういう人がいそうだな、と思わせることができるかどうかが、ドラマを続けてみるかどうかの分かれ道なのではないか、と思っている。
「こういう人、よくいるよな」という単なる「あるある感」ではない。
例えば、時代劇であれば当然その時代に生きていた人はいないので、絶対的正解がないのだが、それでも、この時代にはこういう人もいただろうな、なんだか現代と変わらないところもあるんだな、と思わせることができる脚本や演出や演技であることが重要なのだ。
そういう「ドラマの世界に入る」ことができればいいのだが、ちょっとしたことで「入る」ことができない場合が多くある。
セリフで状況を説明しすぎていたり、都合よく何度も偶然が起こったりすれば、いとも簡単に現実感は失われてしまう。ちょっとした役者の仕草や目線の動きで「演じている」感が出てしまうと、視聴者はすぐに興醒めする。
脚本や演出、演技だけでなく、番宣も作品全体に通じるデザインのトンマナに至るまで、総合芸術的な力がうまく作用しなければ、良い作品にはならないのだろう。
そうした意味では、冬クールの脱落してしまったドラマたちには、どうにも気になってしまう欠落した部分が垣間見えてしまった、ということだ。

朝ドラ『ばけばけ』が描く「他愛のない日常」を再確認
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は引き続き観ていくので別格として、朝ドラ『ばけばけ』の素晴らしさは群を抜いていただろう。
私史上最も好きな朝ドラ『カムカムエヴリバディ』と並ぶか超えるか、というくらい素晴らしかったのだった。
「他愛のない日常の素晴らしさ」をこれでもかと説明なしに、視聴者に委ねた脚本と演出が、ドラマと現実とが混ざり合うほどの感動を呼んだ。
これを計算してやっていたのだとしたら、なんという恐ろしい制作チームだろうか。
テレビの連続ドラマの役割には大きく2つあると私は思っていて、ひとつは(1)より多くの人に見てもらうこと、もうひとつは(2)いかに続けて観てもらうか、ということ。
(1)は一見、朝ドラであるという時点ですでにクリアしているように思われる。もはや国民行事のような毎朝の習慣になっている人も多い朝ドラだけに、朝ドラ終わりの次の番組冒頭での「朝ドラ受け」とセットで見ることで、より深い味わいを感じられるほどだ。
もういっそのこと「朝ドラ受け」という5分のミニ番組を作ればいいのに、とすら思う。
しかし、より多くの人に観られる、ということは、批判や苦情も多いわけで、うまくやらないと炎上しかねないというリスクを常に背負っているのだ。
(2)の続けて観てもらう、というのは民放ドラマに限った話ではない。「連続」ドラマなので次回も続けて観てもらうことが大切だ。
『ばけばけ』は、常に多くの批判にさらされるリスクを背負いながらも、視聴者を「信じて」あえて細かい説明をしないという演出を貫いた。
わかりやすく説明的なセリフを省くことで、「余白」を作り、「余韻」を生み出していた。
その「余韻」は視聴者にさらなる感情を生み出させ、没入感を持ってドラマの中に視聴者を引き込んでいった。
こうした言わば「引き算」の作り方は、実に日本らしくて、小泉八雲という外国人でありながら日本を愛した文豪をモデルとした作品であるからこそ、より引き立ち味わい深い作品になったのではないだろうか。
ハリウッドに象徴される欧米の「足し算」文化からは、生まれにくかっただろう。
アニメに代表される「クールジャパン」以後の、今評価が高まっている日本文学と並んで、世界的にも稀有な文化的背景を持ったドラマが、世界で評価される日も近い、と思う。
視点の現代感が素晴らしい『テミスの不確かな法廷』『東京P.D. 警視庁広報2係』
2026冬クールでいえば最高に面白かったのがこの2作品。
『テミスの不確かな法廷』では、発達障害を持つ裁判官、『東京P.D. 警視庁広報2係』では警察組織の中の捜査をしない「広報」が主人公である。
ドラマや小説の世界でやり尽くされた感のある「法廷もの」と「警察もの」では、新規性を打ち出すためにしばしばニッチな部署やニッチな役職を持った主人公を据えることがある。
その流れではあるのだろうが、確かに今まで見たこともない目新しさはある。
だがそれだけで視聴率が取れるわけではない。
この2作品に共通する、ある視点がこれからのドラマには必要になってくるものがあったと思う。
それは現代的なテーマ、例えば「発達障害の社会参加のあり方」や「権力を持つ側と権力を監視する側」、さらには「警察捜査とプライバシーのあり方」を問うという壮大であり普遍的でもあるテーマに真正面から向き合っている、という点だ。
ややこしさと王道のドラマ的演出の傑作『リブート』
「リブート」とは、直訳すれば「再起動する」を意味するが、ドラマでは「別人になりかわる」ことを意味する。
単に戸籍や個人情報を入手するだけでなく、姿形も変え、癖や仕草までを完璧にインストールして「生まれ変わる=再起動」と定義している。
一見、荒唐無稽なアイデアではあるが、美容整形が一般的に認知され、裏社会の存在や闇バイトなどのニュースで明るみになるほど、うっすらとリアリティを伴ってくる。そのギリギリのラインを攻める脚本と演出が、さすがは日曜劇場枠である。
その「姿形を変え、別人に成り代わる」というのは、小説では難しく、映像作品ならではのアイデアでもある。
しかし、それができてしまうと、途端にストーリーが複雑にならざるを得ない。
Aという人物が起こした行動が、Bという人物に影響を与え、その結果Cという人物が巻き添えを喰らう。しかしAだと思っていた人物は実はAではなくDだった。そうとは知らないBは実はEで知っていて・・・・という少し見逃すとついていけない複雑さを伴うというリスクを背負っている。
そんなリスクがありながらも、日曜劇場枠ならではの勧善懲悪と下剋上とどんでん返しのスリーコンボ脚本で乗り切ってしまうところが、黒岩脚本の強さでもあった。
テーマは一貫していた。
顔も違う声も違う、そんな状況で一体何を信じればいいのか。
信じられるのは、唯一「一緒に過ごした時間の記憶」だった。
初めて出会った日のこと、子どもが生まれた日の天気、ケーキの作り方・・・。
日々の何気ない出来事が、唯一信じられる絆を生んでいた。
それは血縁関係に限らない。
家族に捨てられた子どもを救うシェルターを作った冬橋たちや、顔を変えたからこそ守らなければならないと思えた一香の妹との間にも、かけがえのない関係になっていったことからも伺える。
ラストは、こうなると分かっていても、つい涙腺が緩んでしまうのであった。
令和の今だからこそ感じるエモさ『再会~Silent Truth~』
横関大氏の原作があるものの、しっかりとしたストーリー構成が土台にあって、エモさを十二分に感じさせる演出とが相まって、非常にドラマらしいドラマだったなと思う。
小学校6年生の時、ある事件をきっかけに、それまで仲のよかった4人の心はバラバラになる。
あれから23年が経って、再会する。
その再会のきっかけが、23年前の事件とつながっていた、というプロットだけで面白いことがわかる。
主要な人物たちのキャラクターはちゃんと時間をかけて描かれ、子役とのシンクロ率もビジュアル含めて、非常に丁寧に作り込まれたことがわかる。
だからこそ、ラストの結末には非常に納得がいかない気持ちがある。
それぞれのキャラクターにリアリティが感じられたからこそ、それぞれの思惑が手に取るようにわかるし、彼らがどういう風に考え、どういう風に行動するのかということを想像すると、「ラストはあれでよかったのだろうか」と疑問に思ったりもする。
ネタバレになるので、あまり多くは語れないが、それでもやはり、救われる人がいれば救われない人もいて、それらを丸ごと含めて群像劇だと言ってしまえば、それまでなのだが。
あー、でもやはりラストはちょっと違うんだよなー、と思わざるを得ない。
