【訃報】祖父の葬儀


前回エントリーのつづき。

14日夕方に出発。
祖父の家は島根県益田市にあります。最寄りの空港は萩・石見(はぎ・いわみ)空港。
世界遺産にもなった「石見銀山(いわみぎんざん)」のある地方です。(と言っても石見銀山は島根県大田市ですが)

萩・石見空港は定期便が1日2便しかないため、時間的に間に合わず。
そこでまず、広島空港へ飛び、空港でレンタカーを手配。
高速道路をひた走り、約2時間30分かけて、22時ごろ斎場に到着。
通夜に少しだけ顔を出して、まだ小さい雅空のことを考えて、この日は23時過ぎに駅前のホテルにチェックインしました。
雅空は興奮したのか、少し高い熱を出し、なかなか寝付けませんでした。
まだ小さな子には、タイトな移動だったようです。

翌朝、レンタカーを返却し、再び斎場へ。
この地方独特の風習(かどうかはわかりませんが)「お斎(おとき)」に参加。
「お斎(おとき)」とは、法要後の会食のこと。この地方では葬儀の前に行うらしいです。
参照:お斎(おとき)
お斎(おとき)の席では、祖父の御友人(後輩?)の方が、思い出を切々と語ってくださいました。
 
 
 
葬儀では、地元自治会の方などが大変よくしてくださり、慎ましくも心暖まる式にしてくださいました。
ご参列いただいた方々も、若い方からご年配の方々まで、
幅広い年齢層で数多くいらっしゃり、祖父の交友の広さに驚きました。

お爺ちゃんはこんなにも多くの方々に支えられていたんだなあ、と思うと、
祖父の人生は豊かで、幸せだったのではないかと思います。

祖父は船乗りでした。
大洋漁業の船で、世界各地の港を飛び回っていたそうです。
船乗りだから、飛び回る、という表現はおかしいかもしれませんね。
若い頃の話で記憶に残っているのは、
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後、
広島の川沿いを歩いた、という話。
想像を絶する地獄絵図だったそうです。
(父の言葉を借りれば)第二の人生は船を降り、丘に上がってからの人生。
地域の様々な方々と交流を深め、カラオケをしたり、サイクリングをしたり、
孫である私をいろんなところに連れて行ってくれました。
私は祖父にとって、初孫でしたので、それはもう格別にかわいがってもらったのです。
そんな私はいつも、お爺ちゃんの自転車の後ろに乗って、
「おもちゃ屋さんに行きたい」「ゲームセンターに行きたい」などと、
しょーもないことばかり言っていました。
つまんない孫でした。
 
 
 
出棺前、たくさんの花を棺に手向けました。
草花を育てるのが好きだったお爺ちゃん。
まだ元気だったころ、庭にはいつもたくさんの植物が生い茂り、
小さかった私は、いろんな虫を探して遊んだ記憶があります。
葬儀の間ずっと寝ていた雅空もこの時には目を覚まし、
花を棺に入れていました。
小さな小さな手をきちんと合わせ、「なむなむ」のポーズ。

花を手向けながら、お爺ちゃんの顔に触れてみました。
分かってはいても、あまりにも冷たくなったお爺ちゃんの顔は、
死が現実であることを私に突きつけました。

もう、戻ってはこないんだね。
 
 
 
大型バスで火葬場へ。
市の立派な火葬場で、祖父に最後の挨拶をしました。
読経を唱えてもらい、棺がセットされます。
喪主である父が、最後のスイッチを入れました。
機械化された炉は、淡々と、粛々と、工場のように処理を実行していきました。

火葬が終わるとお骨を骨壺に納めます。
祖父は生前、入れ歯が1本もなく、全て自分の歯だったそうです。
しかも、歯並びがよく、虫歯もほとんど無かったらしいです。
そのせいか、残った骨も大きく、太いものでした。

収骨が終わり、斎場へ戻って荷物を整理すると、
何事も無かったかのように、空っぽの斎場になりました。
 
 
 
この日は親族で食事をしました。
お婆ちゃんは元気そうにしていましたが、どこか寂しそうでもありました。

この日は空港近くの旅館に宿泊。
雅空がいつも通り、賑やかに動き回っていたので、悲しさは紛らわせました。
私は、子供にまで、助けられていたのでした。
 
 
 
 
こうして、このエントリーを書くまでは、心のどこかで、
落ち着いて考えることを避けていたように思います。
まだまだ、人を見送る度量の深さが足りないようです。
もっともっと大きな人間になりたいものです。
 
 
 
※長文御精読ありがとうございました。

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