【BOOK】教育にはエビデンス(根拠)が必要である理由『「学力」の経済学』(中室牧子/教育経済学者:著)

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子育てに悩む親のひとりとして、巷にあふれる「子育て本」や「教育本」は無視できない存在だ。
ここ数年でよく目にするのは、「子どもを次々に東大に入れた母親の家庭学習の秘訣」だとか、「塾にも行かせずにハーバード大に合格させた母親の子育て法」などのセンセーショナルな煽り文句だ。
我が子の教育に関して不安に苛まれている、いち消費者としては、こうしたある種わかりやすいものに飛びつきたくなる気持ちはよくわかる。
子育てや教育といったものには、はっきりとした「正解」がないので、藁にもすがる思いで情報を得ようとしてしまう。
ただ、読んだ直後は何かヒントを得た気分に浸れるのだが、しばらくすると、あれは結局その子どもがすごかったから、あの母親がすごかったからだ、ウチの子には当てはまらない、などなど。あのカタルシスはどこへ行ったのだろうか、と、また不安な気持ちに戻ってしまうものだ。

「学力」の経済学
「学力」の経済学

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中室 牧子
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2015-06-18)
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内容紹介

TBS系列「林先生が驚く 初耳学」(2016/9/25,10/9,11/6放送)で「日本国民全員が一冊持つべき」と紹介された話題の一冊!
「思ったよりカンタンだった! 」
「わかりやすくてスラスラ読めた! 」
など反響続々! 教育書として異例の30万部突破!

「ゲームは子どもに悪影響?」
「子どもはほめて育てるべき?」
「勉強させるためにご褒美で釣るのっていけない?」
個人の経験で語られてきた教育に、科学的根拠が決着をつける!

「データ」に基づき教育を経済学的な手法で分析する教育経済学は、
「成功する教育・子育て」についてさまざまな貴重な知見を積み上げてきた。
そしてその知見は、「教育評論家」や「子育てに成功した親」が個人の経験から述べる主観的な意見よりも、
よっぽど価値がある―むしろ、「知っておかないともったいないこと」ですらあるだろう。
本書は、「ゲームが子どもに与える影響」から「少人数学級の効果」まで、
今まで「思い込み」で語られてきた教育の効果を、科学的根拠から解き明かした画期的な一冊である。

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気になるところをチェックしていたら、付箋だらけになってしまった。

教育にも科学的な根拠「エビデンス」が必要

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そんな心理を知ってか知らずか、本書の主張はシンプルで一貫している。

日本ではまだ、教育政策に科学的な根拠が必要だという考え方はほとんど浸透していないのです。

とあるように、政策の検討段階において、教育分野であっても科学的な根拠(エビデンス)に基づいた取り組みをすべきである、という主張だ。

結局のところ、いち個人の体験記を読んだところで、参考にできるのはわずかな一部分だけであって、一般化することは難しい。
なぜ難しいのか、それは「エビデンス(科学的な根拠)」が無いからだ。

教育分野であっても、心理学や経済学の知見から、できる限り数値化することで、教育の「効果」について検証し、科学的に考察するべきである。
そのためには、

原因と結果、すなわち因果関係を明らかにすること

が大切である、と説く。

著者はさまざまな「実験」結果から導き出される「事実」を踏まえ、教育や子育て時によくある悩みについて、「教育経済学」の視点から答えを出している。

「子どもを“ご褒美”で釣ってはいけないのか?」

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結論から言うと、ご褒美で釣ってもよい、ということらしい。
ただし、ご褒美はアウトプットにではなく、インプットに対してあげるほうがよい、というのだ。

普通、人は遠い将来のことは合理的に判断できるが、
近い未来に関しては、必ずしも合理的とは限らなくなり、
すぐに得られるメリットを大切にしてしまう。

これは経済学の用語でいうと「双曲割引」というものだ。

「遠い将来なら待てるが、近い将来ならば待てない」という、今までの経済学理論では説明できない非合理的行動を説明する概念

双曲割引とは – Weblio辞書
子どもだけに限らず、大人でもついつい目先の利益に飛びついてしまう・・・。
先の将来を考えれば、かなり高い確率で「いま、勉強したほうがよい」ということはわかっているが、つい目先のことにしか目が向かず、勉強しない・・・という行動に結びついてしまっているわけだ。

そこで、目の前ににんじんをぶら下げて、「明日でいいや」という先送りをさせずに、今勉強することに仕向ける仕掛けが必要になってくる。

教育分野における「実験」

こうした経済学の理論だけでなく、著者はさまざまな研究実験結果を踏まえた上で、答えを導き出している。
日本ではまだ教育現場において実験を行うこと自体が難しいということで、その多くは欧米での研究成果ではあるが。

実験としては、「インプット・アウトプットアプローチ」と呼ばれる手法だ。
これは「教育生産関数」といって、教育成果の分析に用いるもっとも標準的な分析枠組だそうだ。

まず、インプットを定義する。
インプットされるものは主に「資源」と呼び、ここでは2種類ある。
親の所得や学歴、家族構成、塾や習い事への支出、家庭学習の習慣の有無などは「家庭の資源」。
教員の数や質、宿題や課外活動の有無、授業時間、カリキュラムそのものなどは「学校の資源」となる。

次にアウトプットを定義するが、これはわかりやすく「学力」とし、主にはテストの得点や成績評価で測ることになる。

ご褒美は「インプット」に対してあげるほうが効果的

実験は2種類行われた。
ひとつは「アウトプット」に対してご褒美をあげるもの。
よくある「テストでよい点をとったらゲームを買ってあげる」などが典型的だ。
もうひとつは「インプット」に対してご褒美をあげるもの。
「本を1冊読んだらお菓子をあげる」など。
インプットはほかにも、宿題を終える、学校にきちんと出席する、なども該当するようだ。

この実験で明らかになったのは、インプットにご褒美をあげると、最終的に学力が向上した、という事実だった。

なぜ、インプットにご褒美をあげると学力が向上したのか?

一見すると、アウトプット(テストの点数がよかったら)にご褒美のほうが、子どもたちには効果がありそうな気がする。実際に、そうやって息子をそそのかして「その気にさせる」こともよくある。
しかし、結果はアウトプットにご褒美をあげてもほとんど効果がなかったそうだ。

なぜか?
これは「勉強の仕方」にも通じるものがあるが、
インプットにご褒美システムでは、子どもたちは「何をすればよいのかが明確」だったことが挙げられるようだ。それは「本を読む」「宿題をする」など、やるべき事がはっきりしていたから。
「アウトプットにご褒美」システムでは、結果がよければよいのだが、そこまでに何をすればよいのか、子どもたち自身ではわからなかったということだ。

勉強のやり方、を勉強する

それを回避するためには、子ども自身で、何をどうすればよいのか、という具体的な方法や手段がわかればよいわけだ。
もちろん、方法といっても、テストのテクニックという意味ではなく、勉強の本質は「学び方を学ぶ」ということだ。
とにかく、「アウトプットにご褒美」システムだけでは、学力の本質的な部分には近づかない、ということがはっきりした。
と同時に、どうすれば成績が上がるのか、という方法を伝え導く大人の存在が不可欠だということでもある。

ここで、我々大人が伝えなければならないことは、勉強の方法だけではなく、本質的な「学ぶことは楽しい」ということではないだろうか。
経済学でいうところの「内的インセンティブ」。
知りたいことを調べ、理解すること、それ自体が楽しいのだ、ということが感じられると、自ずと勉強するようになるはず。
「ご褒美」をあげていくのは「外的インセンティブ」なので、うまく誘導しないと、「内的インセンティブ」を無くしてしまう懸念も残る。
だが、これも実験によって統計的に有意な差は見られなかったということだ。

我が家で実践?

とはいえ。
では、実際に我が家でもやってみるか、と思うものの、具体的にどうすればよいか・・。考えあぐねてしまう・・。
本を読んだらご褒美、という場合、1冊読む本はどのような本を対象とすべきか、読んだらいくらあげるべきか、読む期間はどうするか、などなど、考え出すとキリが無い・・・・。
子ども一人ひとりは違う人格なので、例え兄妹であっても違うだろうし・・・。
こればかりは、試行錯誤を重ねるしかないのだろうとは思う。

今のところ、長男は野球が好きなので野球関係の小説をいくつか読ませている。押しつけるのではなく、自然になるべく自然に「これ、面白かったよ。読む?」と話しかけ、読むか読まないかは彼に決定させる、というやり方を実験中だ。これまで10冊くらいは読み進めているようだ。

「子どもは”褒めて”育てるべきなのか?」

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「ほめ育て」は近年、どの子育て本でも出てくる。
もはや「常識」とでも言わんばかりの「バズワード」とも言えるだろう。
その背景には「褒め育てをすることで自尊心(自己肯定感)が養われ、その結果、学力が上がる」と思われているのではないだろうか。
本書によるとこの考え方には懐疑的なようだ。

アメリカでの大規模な調査で、褒め育てをすることで自尊心(自己肯定感)が育まれ、結果的に学力が上がる、というのはまったくの「逆」であると結論づけられたそうだ。
つまり、自尊心と学力の関係は単なる相関関係であり、因果関係ではなかったということ。
あくまでも学力が高いという「原因」が、自尊心が高いという「結果」を示していたということだ。

では、褒めて育ててはいけないのか?

ここで重要なのは、褒めて育てること自体ではなく、「褒め方」であると述べている。
これもまたアメリカでの調査だが、
褒める際に、こどものもともとの能力(=例えば頭の良さなど)を褒めると、子どもたちは意欲を失い、成績が低下する、というのだ。
「あなたはもともと頭がいいから」とか、「あなたはやればできるのよ」といった、最近はやりの「こどものあるがままを受け入れる」病にも通じるような、「能力」や「状態」「才能」を褒めてはいけない、ということのようだ。

どのような褒め方がいいのだろうか?

ズバリ「能力」を褒めるのではなく、「努力」を褒めるべきだと。
「能力」や「才能」を褒められると、よいときは「才能があったから(うまくいった)」と考えるようになり、悪い結果が出たときには「才能が無かったから(うまくいかなかったのだ)」と考えるようになる。
これが非常に問題なのは、次へつながらないから。
「才能が無かったからダメだったんだ」と思ってしまったら、これ以上先へ進もうという意欲が湧いてこない。だって、才能が無いわけだから、次へ進むモチベーションが湧きようがない。

「努力」を褒めることで、例え悪い結果であっても「これは能力が低いからうまくいかなかったのではなく、努力が足りなかったからだ」と捉えることができ、次はこうしようといった工夫を考えることもできるようになるだろう。

そして、褒める際にはできるだけ「具体的な努力」を褒めることが大切だという。
具体的に子どもが達成した内容を挙げることで、さらなる努力を引き出すことにつながるのだ。

「“勉強”は本当にそんなに大切なのか?」

就学前教育、いわゆる「幼児教育」については、今に始まったことではないが、近年ますます加熱する一方だ。
有名なものとして、女子プロゴルファー横峯さくらさんの叔父にあたる横峯吉文(よこみね よしふみ)氏の「ヨコミネ式」保育園などがテレビで取り上げられたことで広がった。
[link]ヨコミネ式教育法オフィシャルサイト

ヨコミネ式 子供が天才になる4つのスイッチ
横峯吉文
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小学校入学までに平均2000冊の本を読破。2歳で九九を覚え、3歳でひらがな、カタカナの読み書き、5歳で小学2年生が習う漢字をマスターする

引用元:ヨコミネ式 子供が天才になる4つのスイッチ | 横峯吉文 |本 | 通販 | Amazon

といったような、やや極端な事例が取り上げられている。

中室氏も幼児教育ににはある一定の効果がある、としてアメリカのペリー幼稚園のエビデンスを取り上げているが、学力やIQに対する効果は短期的であったということだ。
そして、その中身だが、ここで測られていたのはIQや学力テストなどで計測される能力、いわゆる「読み、書き、計算」などの「認知能力」についてであった。

「認知能力」についてたしかに向上した。ただし短期的な影響しかもたらさなかった。
一方、長期的な視点で見ると、ペリー幼稚園での取り組みそのものは学歴や年収、雇用に関しては大きな影響を残したとされている。
これはいったいどういうことだろうか?

ペリー幼稚園での取り組みは、認知能力だけでなく「非認知スキル」をも伸ばしていた、というのだ。

非認知スキルとは?

非認知スキルとは、通常目に見えにくい能力、例えば「忍耐力」だとか「社会性」「意欲的」など、人間の気質や性格的な側面を指す。
文部科学省的な言葉で言うところの「生きる力」といったところか。
[link]新学習指導要領(平成29年3月公示)Q&A:文部科学省

この非認知スキルは、人が元々持っている性格的なもの、ということではなく、生きていくなかで他人から学び獲得するものであるとしている。
つまり、教育やトレーニングで伸ばしていけるというのだ。

よくよく考えてみれば当たり前の話だが、例えば認知スキルだけが重要であるならば、同じ学力の人は同じように幸せにならなければおかしい、ということになってしまう。
人生の成功においては、認知スキルだけでなく、誠実さや忍耐強さ、社交性や好奇心の強さなどの非認知スキルが非常に重要であることが裏付けられた格好だ。

重要な非認知スキル「自制心」

自らを制御する力、セルフコントロールだ。
これは「マシュマロテスト」と呼ばれる、子ども時代の自制心と、将来の社会的成果の関連性を調査した著名な実験が有名。
本書でも取り上げられている。
[link]マシュマロ実験 – Wikipedia
The Marshmallow Test – YouTube

ウォルター・ミシェルの娘も実験に参加した一人だったが、娘の成長につれ、ミシェルは実験結果と、児童の成長後の社会的な成功度の間に、当初予期していなかった興味深い相関性があることに気がついた。そして1988年に追跡調査が実施された。その結果は、就学前における自制心の有無は十数年を経た後も持続していること、またマシュマロを食べなかった子どもと食べた子どもをグループにした場合、マシュマロを食べなかったグループが周囲からより優秀と評価されていること、さらに両グループ間では、大学進学適性試験(SAT)の点数には、トータル・スコアで平均210ポイントの相違が認められるというものであった。ウォルター・ミシェルはこの実験から、幼児期においてはIQより、自制心の強さのほうが将来のSATの点数にはるかに大きく影響すると結論した。2011年にはさらに追跡調査が行われ、この傾向が生涯のずっと後まで継続していることが明らかにされた。

引用元:マシュマロ実験 – Wikipedia

マシュマロ・テスト:成功する子・しない子
ウォルター・ ミシェル
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重要な非認知スキル「やり抜く力」

もうひとつ、重要な非認知スキルとして、最近とくによく取り上げられているのが「やり抜く力」いわゆる「GRIT」。
Grit: the power of passion and perseverance | Angela Lee Duckworth(アンジェラ・リー・ダックワース 「成功のカギは、やり抜く力」) – YouTube

GRITという言葉自体は真新しいものではありませんが、なぜ今改めて注目を集めているのか。その理由の1つに、アンジェラ・ダックタース氏というペンシルバニア大学心理学教授の研究の存在があります。
 
2016年に発売された書籍「Grit: The Power of Passion and Perseverance」はベストセラーとなり、TEDに登壇した際の動画は900万回以上再生されました。

引用元:「GRIT」とは何か?成功者に共通するのは「才能」じゃなく「やりぬく力」 | HR NOTE

「GRIT」とは何か?成功者に共通するのは「才能」じゃなく「やりぬく力」 | HR NOTE

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自制心もやり抜く力もトレーニング次第で鍛えられる

非認知スキルが人生において大変重要な要素であることがわかった。
さらに、もともと生まれ持った才能が無くても、自制心ややり抜く力は鍛えることが可能。
つまり、筋肉のように何度も継続することと反復することで鍛えらる。

「細かく計画を立て、記録し、達成度を自分で管理する」ことが自制心を鍛えるのに有効であると多数の研究で報告されています。

これはまさに「PDCAサイクル」を回すことに他ならない。
[link]PDCAサイクル – Wikipedia

PDCAサイクルの概念図
PDCAサイクル(PDCA cycle、plan-do-check-act cycle)は、事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務を円滑に進める手法の一つ。Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する

引用元:PDCAサイクル – Wikipedia

つまり「自分のもともとの能力は生まれつきのものではなくて、努力によって後天的に伸ばすことができる」ということを信じる子どもは、「やり抜く力」が強いことがわかっています。

目先の学力(成績)を追うために、非認知スキルが養われるであろう活動を、大人が止めてはいけない、ということも肝に銘じておきたいと思う。

「“少人数学級”には効果があるのだろうか?」

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Photo by Aman Shrivastava on Unsplash unsplash-logoAman Shrivastava

結論から言うと、

「少人数学級には効果があるが、費用対効果は低い」

ということのようだ。

米国での実験で、1学級あたりの生徒数を13〜17人の少人数学級、22〜25人の学級とをランダムに振り分け、それぞれ比較していった結果、学力を向上させる因果効果はあったという。しかし、他の政策と比べると費用対効果が低いということが明らかになった。

少しでも効果があるなら実施して欲しい、というのが親の立場だが、ここで考えなければならないのが「費用対効果」だ。教育にも当然ながらお金がかかる。質の良い教育を施すためならいくらかかってもかまわない、と言いたいところだが、予算には限りがある。個人にも国にも。

2014年財務省が「35人学級から40人学級に戻すべき」と主張。試算では40人学級から35人学級に戻すことで約86億円の削減ができる、という。

対して、文部科学省は35人学級のほうが「望ましい」とはしたものの、教員の多忙感が年々増しているということで少人数学級(といっても35人だが)を推し進めることとなった。

先生たちの「働き方改革」

近年、教職員の「働き方改革」が叫ばれ、先生の働く環境を見直そうという動きはこれからも続くだろう。
働き方改革とは?4つのポイントをわかりやすく簡単に解説 | TECH::NOTE|テックノート|テクノロジー学習やエンジニア転職に役立つ情報を発信しています

個人的にこの問題には問題点と課題点がごっちゃになっており、議論も整理されていないために、それぞれの立場の人がそれぞれの主張を言いたい放題、という状況に見える。

もっと教育現場にITを導入して効率化をすべきだし、そのために教員のITリテラシーを向上させるべきだし、著者が主張するように実験によって教育政策の効果測定を行いPDCAを回すような進め方をしないと、この国の教育は変わらないだろう、と思う。

費用対効果の高い教育政策

話しが逸れたが、本書では費用対効果の高い教育政策についても実験と考察を紹介している。

マダガスカルでの実験では、教育を受けることで生涯年収が大きく変わることを伝えただけで、子どもたちの学力がアップしたという事例が紹介されている。教育を受けることによる経済的な価値は、さまざまな情報が氾濫し、誤った情報を正しいと思い込んでいることもある。そうした誤りを正すだけでも子どもの学力が上がることが証明されたのだ。

また、「きめ細かな指導」という意味では「習熟度別学級」という仕組みが効果的だという。
子どもたちの学力に応じてクラスを分け、指導内容や方法を変えていくことで、よりその子に合った勉強法が見いだせる確率は高くなる。

つまり、エビデンスベースで読み解けば、少人数学級は費用対効果が低い(あるいはほぼ効果が無い)ことが海外のデータで立証されているのに、そんな教育政策を日本はまだ「少人数学級のほうがきめ細やかな指導ができる」だの根拠の無い思い込みで続けているのだ。

日本の教育支出は15年で20%減少した

ここまで一貫してエビデンスの重要性を説いているが、なぜ著者はここまでエビデンスの重要性を訴えているのか?
それは、日本の財政状況の悪化を懸念しているからにほかならない。
本書では平成10年と平成25年とを比較して、この15年間で20%以上減少しているとしている。

新しい数字を検索してみると、平成28年度の数字も見つけられた。

平成28年度における国の一般会計予算は総額で約96.7兆円となっており、そのうち教育を所管する省庁である文部科学省は約5.3兆円の予算となっています(全体の約5.5%)。

引用元:意外と知らない”教育と予算” – 教育ウォッチ | 学びの場.com

とはいえ、こうした数字の推移は切り取り方で見方や受け取り方、印象が大きく変わる。
もう少し古くからの数字を探してみると、次のような資料が見つけられた。
平成22年度文部科学省予算(案)について
グラフ化はされていないが、昭和53年度から平成21年度までの数字がある。
※平成11年度以前は文部省と科学技術庁予算の合計。
文部省予算のうち、
昭和53年度は、3兆8,689億円 対前年度比は15%
平成元年度は、4兆9,934億円 対前年度比は1.6%
わかる範囲での最高額は
平成14年度の、6兆5,798億円 対前年度比は0%(平成13年度とほぼ同額のため)
平成21年度は、5兆2,817億円 対前年度比は0.2%
そして前述のとおり
平成28年度は、約5.3兆円
平成30年度文教予算のポイント(概要)

こうして見ていくと、昭和53年と比べると予算的には多くなっているが、平成14年ごろから見ると1.2兆円も削減されている。そのときどきの政権によって予算編成されるので、時代の景気に左右されるものだし、子どもの数との関連もあるだろう。一概に教育予算が少ない! と言うのはやや乱暴だ。

著者はこうした状況から、日本の教育に対する政府支出が少なすぎる、という主張に対しても、教育に限らず限られた予算の中でやりくりしなければならないので、教育にもどのように使うのかをしっかりと議論すべきであると訴求している。

「2020年までにすべての小中学校の生徒1人1台のタブレット端末を配布する」は愚策

海外での教育政策においては、まず「学力の上昇」という目的が明確化されている。
それに対して日本の教育政策では「1人1台のタブレット端末を配布する」というのが「目的」として掲げられているが、これには異を唱えている。
タブレット端末を配布する、というのは本来は「手段」であるのに、これを「目的」として掲げている。手段が目的化してしまっている。
タブレット端末を何のために配布するのか、その議論が無いのである。
もっと他のことに予算を使った方が、本来の「目的」である「学力の上昇」に叶うかもしれないというのに。

これまでの日本の教育政策が予算獲得の根拠と説得性に欠けることが、教育財源の確保を困難にしてきたのではないでしょうか。財政難の日本だからこそ、エビデンスが必要なのです。

全国学力テストの都道府県順位は学校教育の成果を測る上ではほとんど意味が無い

よくある「全国学力テスト」の順位を都道府県別に発表しているランキングがあるが、あれは何のためにあるのだろうか。福井県や秋田県が上位を占めることがあるが、それを見て「秋田県で子育てしよう」とでも思えばよいのだろうか。

秋田県式家庭学習ノート
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学力の分析には第2章に出てきた「教育生産関数」(=インプット・アウトプットアプローチ)が標準的な分析枠組とされている。「教育生産関数」とはインプットがどれくらいアウトプットに影響しているかを明らかにするものである。
ここでいうアウトプットとは「学力」。インプットは「家庭の資源」(=家族構成、親の年収や学歴など)と「学校の資源」(=教員の数や質、宿題や課外活動など)の2種類がある。

通常、学力の分析では「家庭の資源」は取り除いた上で行われることがほとんどだそうだ。政策を実行するために実験をするので、当然その実験の主体は役所など公的機関であることがほとんど。「家庭の資源」である親の年収などはコントロールできないので、実験対象としては意味が無いどころかノイズであるからだ。
また、子どもの学力を決定づけている要因の50%は家庭や本人にその要因があるという研究もある。さらに遺伝が学力に与える影響も無視できない。諸説あるが、約35%は遺伝によって学力が決まるという研究結果もあるようだ。

「どういう学校に行っているか」と同じくらい、「どういう親のもとに生まれ、育てられてきたか」ということが学力に与える影響は大きいのです。

日本での数少ない実験結果からは、「家庭の資源」からの影響が大きくあったことと、「学校の資源」が与える影響は統計的に有意なものはほとんどなかった、という結果もでているという。
そう考えると、学力テストの都道府県別順位などを見ても、あまり参考にならないどころか、ほとんど意味が無いということがわかる。
それだけでなく、よい学校へ入れたい、なるべく早くから難関校へ入れるように「お受験」しておこう、という考え方にもあまり意味が見いだせなくなってくる。

エビデンスだけから考えると、良いとされる学校へ入っても、結局、学力は「家庭の資源」及び本人の努力次第ということであれば、どの学校へ行っても学力には影響が無い(あるいは少ない)ということになるが、これは気をつけないといけない。それは「学力」をどのように定義するかによるし、こども本人の性格にもよるからだ。
とくに周りからの影響を受けやすい年代の子どもにとっては、周りが勉強熱心な学校とだらだらと無軌道な生活態度ばかりの学校とでは、変わってくるだろう。エビデンスは大切だが、エビデンスを元に「子ども本人を見る」ということが大前提であろう。

著者はこうした状況の中で都道府県別の順位を発表していくことに警鐘を鳴らしている。
順位だけを見て「あの学校は素晴らしい指導をしているが、こちらの学校は努力が足りない」などと短絡的に考えてしまう人を量産することになる上に、学校や教員に本来彼らが負うべきではない責任を負わせることにもつながるからだ。
公立学校の教員は文部科学省の学習指導要綱の範囲でしか指導はできないので、教員個人の裁量はほとんどないといってもいいくらいだ。そうした現実を知らない親が学校や教員に対してあれこれと注文をつけるという昨今の風潮は私個人としてもよろしくないと感じている。
すでに学校の場だけで子どもたちの学びを最適化することは困難、というよりも無理ゲーなのである。

行き過ぎた「平等主義」が格差を拡大させている

日本の戦後の学校教育では長らく「平等主義」が続けられ、今もより「平等」であることが「正義」とされている。
「家庭の資源」に格差がすでにある中で、子どもたちにだけは「平等に」教育を、ということが根底にあると考えられるが、これは格差をより一層大きくしている、という矛盾がある、と著者は述べている。

この「家庭の資源に格差がある中ですべての子どもに同じ教育を行えば格差が拡大する」とはどういうことなのか。
かつて「ゆとり教育」によって学力が大きく下がった時期があった。いわゆる「PISAショック」である。
PISAとは学習到達度調査である。
OECD生徒の学習到達度調査 – Wikipedia
国際学力調査(PISA、TIMSS):文部科学省
PISA(ピサ)とは – コトバンク

ゆとり教育によって学校も週休2日制となった。私の世代(2019年時点で40代後半)では子どもの頃は土曜日も3時限だけ授業があった時代だった。
週休2日制となったことで、親が経済的に裕福であれば土曜日に塾へ行かせることで勉強時間を補填したが、親が経済的に裕福でない場合は子どもが自主的に勉強するわけではないので当然勉強時間はそのまま減ることになる。それが結果的に子どもたちの学力の格差拡大につながったのだ。

ある世代の子ども全員を対象にして「平等」に行われた政策は、親の学歴や所得による教育格差を拡大させてしまうことがあるのです。

子どもの貧困は全体の3割弱。決してマイナーな問題ではない

親野学歴や所得が低いがために、その子どもが十分な教育を受けられず、また低学歴・低所得に陥っていく状態を「貧困の世代間連鎖」といいます。

東京や大阪などの大都市圏ではとくにこの傾向が高く、2012年の調査では全体の24.2%、28.1%となっており、決してマイナーな問題ではなく、すぐ近くで起きている問題である。

ここで問題なのはその対処法としての政策である。
家庭の資源の格差を広げないために例えば「子ども手当」のように親に経済的援助を行うことが有効かというと、これはまったく意味がない、という実験結果がでているそうだ。
子ども手当(こどもてあて)とは – コトバンク

この問題は深刻であるにも関わらず、あまり広く関心を持たれていないようで、有効な手立てが未だに見つけられていない。「子ども手当」ではなく「教育バウチャー」なども考えられているが、日本では実現していない。
教育バウチャー(きょういくバウチャー)とは – コトバンク
どうして実現しないのか。それは学校関係者からの政治的圧力であろう。バウチャー制度のもとでは親は子どものためにどの学校に行かせるかを選べる。それによって教育機関にも市場原理を持たせ、競争させていくことで教育の質を上げていくことも目的としてあるからだ。そうすると、競争しなければならない学校側は大変である。それを嫌ってロビー活動によって教育バウチャー制度を阻止している、というのが私の個人的な見方だ。念のために書いておくが本書にはそういったことはまったく書かれていないが、「子ども手当」のような補助金政策では子どもの学力向上への因果関係は実験の結果得られなかった、とある。

貧困世帯の子どもに有効な手立ては「少人数学級」

前段で「少人数学級には効果はあるが、費用対効果は低い」とあった。
矛盾しているではないか、と思われるかもしれないが、これは矛盾しない。
費用対効果が低くなるのは、「全員に対して平等に」行うからだ。
ここも行き過ぎた「平等主義」の悪影響がでている。
学校の「全員」ではなく、就学援助を受けているような貧困家庭の子どもに対してだけ少人数学級での指導を行えば、効果が大きいことは実験によって結果が出ている。
何もかも「平等」に行うのではなく、子どもを見て適切に対処していくべきである。
しかし、現実問題としてそうした政策を実行しようとすると、必ず不平不満を述べる「バカ親」が出てくる。
「不公平だ」というのだ。こうしたバカ親は公教育を「サービス業」だと勘違いしているのだ。
公教育と学習塾との違いがまるでわかっていない。
こうした親に育てられたこどもは碌な人間にならない。
苦しい立場にある人に対して思いやりを持てない人間になってしまう。
それは「家庭の資源」が子どもに与える影響が大きいことからも簡単にわかる。

「“いい先生”とはどんな先生なのか?」

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Photo by Sebastián León Prado on Unsplash unsplash-logoSebastián León Prado

ここまでで、子どもの学力には家庭の資源が大きく影響しており、学校が与える影響はほとんどない、ということが述べられてきたが、しかし、だからといって学校現場は何もしなくてよい、ということではない。
家庭の資源など親の年収や学歴は子ども自身ではどうしようもない。それを解決、あるいは回避できるとしたら、それは教員であろう。

日本の学校教育の現場では長らく「教員の質」というものがあまり問われてこなかった、と著者は言う。
では、「教員の質」とはどういったものなのか。どうやって測ることができるのだろうか。

ひとつの方法としては、「教員が担当した子どもの成績の変化を見る」ということが挙げられる。
子どもの成績が上がればその教員の指導がよかった、ということが考えられる。
もちろん他の要因もあるかも知れないので、それだけではないだろうが、いくつかの実験の結果、子どもの成績の変化を見るというのは、教員の質を測る際に有用だという結果が出たのだ。

ここで注意が必要なのは、子どもの成績「結果」ではなく、成績の「変化」ということだ。
つまり昨年も今年もクラスの平均点が80点の教員(アベレージがよい教員)ではなく、
昨年はクラス平均点が30点だったのが今年は35点にした教員(アップさせた教員)が「よい教員」なのである。

ある子どもを、他の子どもや集団と比較するのではなく、過去のその子自身と比較して昨日より今日、今日より明日と伸ばしてやれる先生こそが、「いい先生」なのです。

教員の質を高める施策には有力な手立てがないという現実

どうすれば教員の質を上げることができるのか。
これには未だに有効な手立ては研究されていないという。
簡単に考えつくのは、
・教員の給与を上げる(成果によってボーナスを支給する)
・教員研修をより多く行う
・教員免許制度を見直す
といったところだろうか。

しかし、いずれも教員の質を上げることができた、というエビデンスは得られていない、と本書では述べられている。
教員の給与を上げても効果がなく、教員研修でも効果がなく、教員免許を持っているか持っていないかに関してもほとんど違いが見られない、ということのようだ。

「ティーチ・フォー・アメリカ」は福音となるか

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唯一光明が差しているのは「ティーチ・フォー・アメリカ」の事例である。

ティーチ・フォー・アメリカ(Teach For America、TFA)とはアメリカ合衆国のニューヨーク州に本部を置く教育NPOである。アメリカ国内の一流大学の学部卒業生を、教員免許の有無に関わらず大学卒業から2年間、国内各地の教育困難地域にある学校に常勤講師として赴任させるプログラムを実施しており、2007年にはビジネスウィーク誌が調査したアメリカの学部学生の就職先人気ランキングの10位に入っている[1]。また、2010年には全米文系学生・就職先人気ランキングで、GoogleやAppleを抑えて1位となった[2]。

引用元:ティーチ・フォー・アメリカ – Wikipedia

「教育を変える、社会起業家の可能性」Teach for America創始者 ウェンディ・コップ氏 インタビュー | DRIVE – ツクルゼ、ミライ!行動系ウェブマガジン
[blogcard url=”https://drive.media/posts/7316″]

Teach For Allについて | すべての子供が成長できる「教室」。Teach For Japan
[blogcard url=”http://teachforjapan.org/about/teach-for-all”]

本書では

これまでの研究によれば、ティーチ・フォー・アメリカの教員が教えた生徒は、教員免許を保有する教員らに教えられた生徒と比べて成績がよいか、成績には差がないことが明らかになっています。

という実験結果を伝え、

経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はかなり小さいというのがコンセンサスになっています。

とぶった切っている。
さらにはハーバード大学ケイン教授の指摘を引用して
「教員免許を持っているかどうかが子どもの学力に与える影響は非常に小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい」
とさらにツッコんでいる。

このことから、教員免許制度は教員の質を必ずしも担保していない、ということになる。
たしかに、世の中にはいろんな「先生」がいる。
教員免許を持っていても、必ずしも教え方がうまいとか、人として見習うべきところがたくさんある、というわけではないことは、誰しもが実感していることだろう。

これからの教育制度を考えたときに、この教員免許制度を見直す、あるいは無くすことも考えた方がよいのだろう。

「専門職大学」は日本版「ティーチ・フォー・アメリカ」となるか

現実的に文部科学省もその方向にシフトしている、とも見える動きがある(本書には記載はない)。
専門職大学」制度である。

専門職大学(せんもんしょくだいがく)とは、日本の職業大学。

四年制大学及び短期大学とは異なり、実習や実験等を重視した即戦力となりうる人材の育成を目指す目的で設置される[1][2]。また、職業もしくは実際生活に必要な能力を育成する教育施設である専門学校と違い、一条校として開設される。新しい制度の大学が設置されるのは、1964年の短期大学制度導入以来となる[1][2]。

引用元:専門職大学 – Wikipedia

専門職大学・専門職短期大学・専門職学科:文部科学省
[blogcard url=”http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/senmon/index.htm”]
Senmonnshoku

「専門職大学」、2019年度からスタート|ベネッセ教育情報サイト
[blogcard url=”https://benesse.jp/kyouiku/201704/20170420-1.html”]

簡単に言うと、社会に出てから即戦力となる人材を教育しましょう、という制度である。
「即戦力」の定義がなされていないので何とも言えないが、そもそも「即戦力」となるには現場を経験している必要があると思うが、現場を経験していない学生が卒業してすぐに即戦力となることはそもそも無理だと私は考える。
いくら「卒業単位の3〜4割を企業で実習」したとしても、だ。

この専門職大学の特徴として「教員の4割以上を実務家が務める」というのがある。
この取り組みが「ティーチ・フォー・アメリカ」からの着想なのかどうかは私にはわからないが、現状の学校制度の限界を突破できる、唯一の施策ではないかと思う。

「寺子屋」制度を復活させるべきではないか

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明治になって、それまでの幕藩体制が崩れ、廃藩置県が行われ、新政府による新しい日本を作ろうとしたとき、これまで教育を受けたことがなかった農民にも、広く学問を説く必要があった。そのとき「先生」と呼ばれる人ではなく、近所の「できる人」が「寺子屋」で読み書きそろばんを教えた。もちろんその「できる人」はいろんな物事を知っていたり(知識)、いろんなことをやってきた(実績)わけだが、決して「教え方がうまい」というわけではなかったはずだ。
寺子屋 – Wikipedia

では、なぜこの「寺子屋」形式で広く学力が向上し、日本の発展につながっていったのか。
もちろん私は学者ではないので推測でしかないが、「寺子屋」形式には現在の学校制度と大きく違う点があり、それが根本的な「教育」の重要な部分に根ざしているからではないかと考える。

寺子屋形式というのは、現在の学校制度とは違い、先生(と呼ばれる人)が前に立って一斉に同じ事を教える、という形式をあまりしない。こどもひとりひとりがそれぞれのペースで学習を進め、先生はそれぞれの机をまわって進み具合をチェックし、ときにはアドバイスを与える。決して「教えすぎない」ことも肝要。
「集団授業」ではなく「個別授業」というイメージがわかりやすいかも知れない。
とはいえ、現代の「塾」産業が盛んに喧伝している「個別授業」とは似て非なるものだ。

寺子屋と現代塾の「個別授業」との3つの大きな違い

塾産業のいう「個別学習」は私が聞く範囲では、大学生アルバイトが1人に対して生徒2人を受け持ち、それぞれが学習していくサポートを行う、というもの。生徒がわからないところや聞きたいところを質問し、それに応える存在、と言えば寺子屋形式に非常に似ているように感じるが、ここには3つの大きな違いがある。

ひとつは、寺子屋での「先生」には圧倒的な知識と実績と人徳を持つ「できる人」だったということ。これを昨今の大学生アルバイトに求めるのは酷というものだ。寺子屋の最盛期は江戸中期。当時は日本全体でも15,000以上の寺子屋があったという。その中でも「先生」にあたる人は「お師匠様」と呼ばれていたようだ。

 もちろん、実力や人格に問題のある先生もいたであろう。しかし、
狭い地域内に、幾人かのお師匠様がおり、生徒は自由に選べるので
ある。現在でも、町内でどこの塾が良いというようなことは、評判
ですぐ分かる。つまらない人間が金目当てに塾を開業しても、生徒
は集まらない。生徒とその親から見れば選択の自由、そして塾どう
しで見れば、競争があったのである。

 子供達は、親が見込んだ先生、それも地域で尊敬される師匠につ
いて、何年にもわたって読み書きから、専門知識まで学んでいく。
いろいろな年齢の子供達が一つの部屋で机を並べ、それぞれの進度
で、師匠の指導を受けながら学んでいく。師匠には、一人一人の子
供の個性や能力がよく見えたであろう。それぞれの生徒に応じた指
導ができたはずである。

引用元:JOG(030) 花のお江戸はボランティアで持つ

次に、寺子屋の時代は学ぶ側にモチベーションが高く(それもかなり高く)あったということ。学びたい、学んで出世することが美徳とされた時代だ。これも現代の子どもに求めるのは無理がある。「なぜ勉強しなければならないのか」「めんどくさい」「こんなことやって何になる」などなど、我々の時代でも心当たりがある文句が並ぶ現状を鑑みれば、無理もない。元LINEの森川氏が言うように「主体性は教育できない」のである。
LINE(株)CEOを退任した森川亮氏が明かす!社員が「教育」を求めるのは”受け身”の証拠 | シンプルに考える | ダイヤモンド・オンライン

しかも、そういう人に限って、こんなことを言い出します。
「成長できないのは、会社が教育しないからだ」
 これは、「教育」を言い訳にしているだけ。
 こんな言い訳を許さないためにも、できるだけ会社は「教育」という言葉を使わないほうがいいと、僕は考えています。

 むしろ、こういう人たちにとっては、「教育」こそが害悪となるのではないでしょうか? なぜなら、「主体的になること」を教育することはできないからです。

引用元:LINE(株)CEOを退任した森川亮氏が明かす!社員が「教育」を求めるのは”受け身”の証拠 | シンプルに考える | ダイヤモンド・オンライン

できるとしたら、やる気を出す「きっかけ」を作ることくらいだろうか。
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3つ目として、コストの問題。当時の寺子屋はほぼボランティアに近い程度の「月謝」であったという。学ぶ側にお金がないのはいつの時代も変わらないらしい。とはいえ育てる側(=寺子屋)がまったくの無報酬というわけにはいかない。

面白いのは、たいていの塾は、武家や僧侶、農民など、他に収入
のある人達がやっているので、授業料などは生活の足し程度でしか
なかったという点だ。生徒は「お志」として、都市部では多少の金
品や菓子折り、農村部ではとれた野菜などを届ける程度であったと
いう。現在なら、年金だけで食べていける定年後のお年寄りが、地
域への奉仕として、子供達を教える、というような形である。今流
に言えば、ボランティア活動であった。

引用元:JOG(030) 花のお江戸はボランティアで持つ

それでは、なぜ全国で1万5千もの塾ができる程、大勢のボラン
ティアの先生がいたのだろうか。それは、先生になると、たとえ身
分は町人でも、人別帳(戸籍)には、「手跡指南」など、知的職業
人として登録され、生徒には「お師匠様」と尊称で呼ばれ、地域で
も知識人、有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接
拝謁して、お褒めの言葉をもらうこともあったという。

引用元:JOG(030) 花のお江戸はボランティアで持つ

現代では親が多額の金額を積んで塾へ通わせなければならない。中学校では生徒がここがわからないから教えてくれというと「塾で聞け」と言われるそうだ。本書でも断言されているように「教員免許は必ずしも教育の質を担保できていない」ということがよくわかる。

まとめ

本書の主張は首尾一貫している。
教育分野には科学的な根拠=エビデンスが必要だ、ということ。
これまでの慣習や思い込みをいったん排除し、エビデンスに基づいた「教育政策のグランドデザイン」を政府は模索すべきであり、それを行うためには教育現場における「実験」を数多く行い、オープンにしながら議論すべきである、と。
そして、読み解き方によっては家庭レベルでできることも本書にはちりばめられている。
ぜひ参考にしたい。いや、していかなくてはならない。


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