高校の修学旅行の代わりの行事で、夜通しみんなで長距離を歩く「歩行祭」。
歩きながら、普段は言えないことを話し、普段は聞けないことを聞く。
高校最後の夏、あともう少しで大人になってしまう、そのギリギリ手前の、最後の花火が花開くような、切なさとやや暗さのある混沌と、汗も足の痛みも、なんなら鼻水だって混じった、青春の一夜の物語。
夜のピクニック (新潮文庫) | 陸, 恩田 |本 | 通販 | Amazonより引用:
繫ぎ留めておきたい、この時間を。
小さな賭けを胸に秘め、貴子は高校生活最後のイベント歩行祭にのぞむ。誰にも言えない秘密を清算するために――。永遠普遍の青春小説。
高校生活最後を飾るイベント「歩行祭」。それは全校生徒が夜を徹して80キロ歩き通すという、北高の伝統行事だった。甲田貴子は密かな誓いを胸に抱いて、歩行祭にのぞんだ。三年間、誰にも言えなかった秘密を清算するために――。学校生活の思い出や卒業後の夢など語らいつつ、親友たちと歩きながらも、貴子だけは、小さな賭けに胸を焦がしていた。本屋大賞を受賞した永遠の青春小説。
「歩く」は人生のメタファー
学校という、小さな閉鎖された空間で過ごした時間は、どこか抽象的な記号のような世界で、それが「簡略化された地図」だとしたら、卒業後の世界はまさしくリアルな現実の地図なのだろう。
当たり前のことなのだが、道はどこまでも続いていて、いつも切れ目なくどこかの場所に出る。地図には空白も終わりもあるけれど、現実の世界はどれも隙間なく繋がっている。その当たり前のことを毎年この歩行祭を経験するたびに実感する。物心ついた時から、いつも簡略化された地図や路線図やロードマップでしか世界を把握していないので、こんなふうに、どこも手を抜かずに世界が存在していると言うことの方が不思議に思えるのだ。
これから高校を卒業して大学へ進学したり、社会へ出たりする、ちょっとだけ手前のこの時期に感じる、切なさや焦りから、「どこにも手を抜かずに世界が存在している」という現実を受け止めきれない感情が見て取れる。
なるほどな、と思う。
小中高という学校で行われる授業では、いつだって抽象化された世界だ。
それは、教育という名の下に、リアルだけに直面しても理解できない、とされている年齢に応じて、現実から要素を抽出した「記号」を教えるものだ。
そうしてインプットした「記号」という抽象を、現実世界においてデコードしていくのは、決まって社会に出てからの作業となる。
だが、「受験用に最適化された記号」のインプットは、記憶に長くは定着しないものだ。
忘れ去られたかすかな記憶を頼りに、社会に対して歯を食いしばって抗うしか手立てがなかったりする。
思うに、記号から現実へ向かうという方法に問題があるのであれば、いっそ現実を体験してから抽象を理解する手がかりにしてはどうだろうか。
ああ、それがこの「歩行祭」なのか。と合点がいく。
みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。
どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね。
と榊杏奈は言った。
夜通し、ただ歩く、というイベントを通して、圧倒的な現実を体感する。
その過程で、半ば強制的に、仲間や家族や自分についてあれこれ考える。
現実を前にして、否応なく頭を巡らせることで、記号の本質を知ることになるのだろう。
ーーーネタバレ注意!ーーー
「高校生」というファンタジー
昼と夜だけではなく、たった今、いろいろなものの境界線にいるような気がした。大人と子供、日常と非日常、現実と虚構。歩行祭は、そういう境界線の上を落ちないように歩いていく行事だ。ここから落ちると、厳しい現実の世界に戻るだけ。高校生という虚構の、最後のファンタジーを無事演じ切れるかどうかは、今夜で決まる。
高校生という属性に身を置いたとき、それは「虚構」なのだということを、すでに理解しているからこそ、「最後のファンタジー」を演じること、つまり「青春」をちゃんとやっておくべきだと痛感するのだろう。
貴子はいろんなものを独りで抱え込み、美和子は彼氏がいながらも、それは自己満足の鏡映しであることを自覚してしまう。
融は「もっと、ちゃんと高校生やっとくんだったな」「損した。青春しとけばよかった」と悔やむ。
誰よりも先に大人になるつもりだった自分が、いちばんの子供だったという自覚とともに。
青春なんて、そんなものかもしれない。
頭で考えていることと、動いている身体と、実際に起きていることとが、うまくリンクしない。
いや、リンクはしているのだが、噛み合っていないというべきか。
自分が見ている(と思っている)景色と、実際の景色とのギャップ。
夢を見ているのに、夢の中だと気づいていない、あの感じ。
あとで振り返って、なんであんなことしたんだろうとか、なんであんなこと考えていたんだろうとか、自分の馬鹿さ加減にウンザリするものだ。
そんな青春の残像の切なさを知っているのか、忍は融に諭す。
おまえにはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。おまえ、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う
忍は人生何周目なのだろうか。
高校生という期間限定の旬の生ものだということを、忍は切実に理解している。
その想いは融にも届く。
今は今なんだと。今を未来のためだけに使うべきじゃないと。
早く大人になりたくて、遠くばかりを見て足下を見ていない危険さもまた、青春なのだろう。
著者の母校の実際にある「歩く会」という学校行事をモデルとしているらしい。
どこか遠くへ行って観光地を巡る修学旅行も、それはそれでよい面があるだろう。
だが、こうした「ただ歩く」というシンプルなイベントを通して、高校生の今だからできる「心の修学旅行」もまた、良い面があるように思う。
普段は言えないようなことを、そっと友に打ち明ける。
大人であれば、お酒の力を借りて、後先考えずに発散することもできるだろう。
ただ、高校生という微妙な立ち位置では、それも叶わない。
「自由歩行」では、誰といっしょに歩くか、が彼らの最大関心事となる。
それは、普段とは違う、自分にとっての特別な存在を選ぶことに他ならず、それは翻って、周囲の人間関係を改めて振り返ることで自分自身をも見つめ直すことにもなる。
そうして、一歩一歩、大人になっていくのだ。
タイトルの謎
なぜ、「ピクニック」なのか。
「夜」はわかる。夜は限りある青春の象徴であり、時間とともに刻一刻と変化する状況と感情のメタファーだろう。
明けない夜はない、という言葉の通り、本作を象徴している。
では、「ピクニック」というのは何か?
「歩行祭」だとタイトルっぽくないからだめなのか。「ピクニック」のほうが一般的にイメージしやすいからだろうか。
「ピクニック」は、ちょっと出かけて、シートを広げてランチして、という長閑で牧歌的な緩いイメージがある。
だが「歩行祭」は朝8時から翌朝8時までの24時間で80キロという距離を夜通し歩く行事である。考えたらかなり過酷で、とてもそんなピクニックという感じではない。
本作のラストのラストで榊順弥が言う。
夜のピクニックはもうおしまい。あれはあれで面白かったけど、僕はやっぱり太陽の下をどこまでも走りたい。
「ピクニック」」という言葉が出てくるのは、おそらくここだけ。
順弥から見ればピクニックくらいの、軽いイベントのようなものだったのかもしれない。
高校生という虚構や、青春というものは、外から見れば、そのような気軽な楽しいものに見えてしまうものだ。
そういう意味での「ピクニック」だとしたら、人生2周目なのは、順弥なのかもしれない。