火星の女王

【BOOK】『火星の女王』小川哲:著 SFは現実世界の距離と時間を歪める

小川哲の『火星の女王』を読んだ。
火星を舞台にしたSFである。
宇宙船が飛び交い、未知の生命体が現れ、地球とはまったく異なる文明が描かれるような物語、ではない。
だが、この小説を読み終えて自分の中に残ったのは、もっと奇妙な感覚だった。
火星という場所が、読む前より少しだけ近い存在に感じられるようになったのである。
もちろん、物理的には何も変わっているはずがない。
火星は遠い。
とてつもなく遠い。
それなのに、この物語を読み進めていくうちに、その「遠さ」そのものについて考えるようになった自分がいた。

そして調べてみると、2026年現在、現実の火星でも小説を読んだ直後なら思わず反応してしまうような研究や発見がいくつも進んでいた。
『火星の女王』は未来を予言したといった類の小説ではない。
現実の科学と小説を無理に結びつける必要もない。
それでも、この本を読んだあとに現実の火星を見ると、以前とは少し違って見える。
それも含めて、最初から著者に計算されていたと気づいたのは、読後しばらく経ってからであった。


火星は、想像していた以上に「遠い」

『火星の女王』を読んでいて、改めて意識したことがある。
地球と火星は、ものすごく離れている、ということだ。
当たり前の話なのだが、普段はあまり実感しない。
地球と火星の距離は公転周期が違うため、両惑星の位置関係によって大きく変化する。
比較的接近したときでも約5,500万km、遠いときには約4億km以上になる。

問題は、この距離が単なる数字ではないことだ。

現在の物理学では、物質や情報を光より速く伝えることはできないと考えられている。
通信に使う電波も光速を超えて進むことはできない。
そのため地球から火星へ信号を送るだけでも、片道でおよそ3分から22分程度かかる。
「もしもし」
と言ってから、
「はい」
と返事が来るまで、最悪の場合は往復で40分以上である。
これはもう、私たちが認知している「会話」ではないと言って差し支えない。
今この瞬間、火星にいる人に何かが起きても、地球から通信によるリアルタイム支援はできないのだ。

惑星探査車についても同じだ。
地球からラジコンのように操作しているわけではない。
リアルタイムでは操作できない。
なので通信遅延を前提として行動計画を送り、探査車自身にも一定の自律性を持たせているらしい。

ここまで考えると、火星の「遠さ」は距離だけの問題ではなくなってくる。
地球から離れるということは、時間的にも切り離されるということなのだ。
『火星の女王』では、この「距離と時間の隔たり」が物語の背景に常に存在し続ける。
そして読み進めていくと、ある物質が非常に重要な意味を持ち始める。


Unsplash Nicolas Lobos Nicolas Lobos

火星の地下にあるもの

その物質とは「スピラミン」という鉱物である。
もちろん実在しない、フィクションだが、その性質については、物語の重要な鍵となるため、ここでは詳しく触れない。

重要なのは、それが火星の地下から見つかるということだ。
これはもちろんフィクションだとして、現実の火星ではどんなものが見つかっているのかと呑気に考え、現実の火星地下について少し調べてみた。
すると、なかなか興味深い研究が見つかった。

NASAの火星着陸機InSightは、2018年から2022年まで火星で地震観測を行っていた。
火星にも地震があるらしい。
「Marsquake(火震)」と呼ばれる現象である。

そのデータを解析した2024年の研究では、InSight着陸地点の地下約11.5〜20kmについて、観測結果をよく説明するモデルとして、液体の水で満たされた亀裂の多い火成岩が提示された。

ここは誤解しやすい。
「火星の地下に巨大な海が発見された」という話ではない。
岩石の細かな亀裂や隙間に、液体の水が存在している可能性がある、という研究である。

しかもInSightが観測したのは火星の一地点なので、同じ状態が火星全体に広がっていることが確認されたわけでもない。
だから、「火星の地下に海がある」とまでは言えない。
(その後の研究では、同じ観測データを液体水以外でも説明できる可能性なども指摘されており、地下水の存在が確定したわけではない)
それでも興味深い。

表面だけを見れば、現在の火星は乾燥した世界である。
これまでのSF作品でも、半ば「火星の常識」のように「火星は乾燥した砂漠のような大地」だと描写されてきた。

ところが地下深くには、現在も液体の水が残っている可能性がある。
『火星の女王』を読んでいなければ、「火星地下に水があるかもしれない」という単なる科学ニュースとして読み流していたと思う。
しかし読後だと、
「やはり火星の地下には何かがあるのか」
と思ってしまう。
もちろん、小説とこの研究には直接の関係はない。
ただ、物語によって一度与えられた視点が、現実を見るときにも残るのである。


Unsplash NASA NASA

火星には、まだ「だからなんだ」が残っている

もう一つ、気になったニュースがある。

2024年5月30日、NASAの火星探査車Curiosityがゲディズ峡谷を走行していた。
その途中、車輪が岩を踏んで割った。
すると、その中から黄色い結晶質の物質が現れた。
分析すると、それは単体硫黄だった。

火星で硫黄そのものが珍しいわけではない。
これまでにも硫酸塩など、別の元素と結合した状態の硫黄は数多く確認されている。

ところが、この場所で単体硫黄が見つかることは予想されていなかった。
しかも周囲には、同様の明るい岩石が複数存在していた。
Curiosityプロジェクト科学者のAshwin Vasavadaは、この発見を「砂漠でオアシスを見つけるようなもの」と表現している。
「火星の常識を覆した」とまで言ってしまうと大袈裟だ。
単体硫黄は物理法則に反する物質でもなければ、生命の証拠でもない。

2026年には、その形成に地下のマグマ由来の流体やガスが関与した可能性を検討する研究も出ている。
それでも面白い。

2012年から火星を走り続けている探査車が、十数年後になって偶然岩を割り、
「ここに、こんなものがあるとは思っていなかった」
という物質を見つける。
火星にはまだ、そういう”フロンティア”が残っている。

『火星の女王』に登場するスピラミンもまた、人類が「だからなんだ」と立ち止まるところから始まる。
「それがあったからといって、一体なんの役に立つのかもわからない」という意味で「だからなんだ」という諦観にも似た感覚がずっと残る。
現実の単体硫黄とスピラミンが似ているわけではない。
重要なのはそこではない。
私たちは火星について、まだ「何があるのか」をすべて知っているわけではない、のだ。


Unsplash Dynamic Wang Dynamic Wang

そして、スピラミンの意味が変わってくる

ここから少しだけ、物語の中盤で明らかになっていく設定に触れる。

スピラミンが奇妙なのは、単に未知の鉱物だからではない。
離れた場所に存在するスピラミン同士が、まるで距離など存在しないかのように「同期」する性質を持っている。
一方に起きた変化が、遠く離れたもう一方にも現れる。
何をトリガーにして「同期」するのかも含めて、分からないことだらけではあるが、分かっているのは距離に関係なく結晶構造を変化させる、という「同期」をしているというのだ。

ここで、冒頭の話に戻る。
地球と火星の通信には、片道で数分から20分以上かかる。
地球と火星は、空間的に離れているだけではない。
時間的にも離れている。

ところがスピラミンは、距離に関係なく同期するという性質が、その前提そのものを壊してしまう。

私はここまで読んだところで、ようやく「なるほど」と思った。
この物質の面白さは、未知の超物質が登場したことではない。
地球と火星の間に存在していたはずの「距離」が、意味を失ってしまうことにある。


Unsplash Daniele Colucci Daniele Colucci

もし「遠い」ということが、なくなったら

現実の物理学にも、少し似た印象を与える現象は存在する。
「量子もつれ」である。

量子もつれでは、離れた粒子同士に古典物理では説明できない強い相関が現れる現象のことだ。
アインシュタインが「不気味な遠隔作用(Spooky action at a distance)」と呼んで疑問を呈したことでも有名だ。

アインシュタインが重視していた考え方の一つが「局所性」である。
遠く離れた場所で行われた操作が、もう一方の物理的状態へ瞬時に因果的な影響を及ぼすことはない、という考え方だ。

またEPRの議論では、量子力学が物理的現実を完全に記述しているのか、という「実在性」をめぐる問題も重要になる。
「実在性」とは、物理的な性質は、人間が観測しようがしまいが、最初から確定して客観的に存在しているはずだという考え方。
もうひとつの「局所性」とは、ある場所で起きたことが別の場所に影響を与えるには、空間を通じて光速以下のスピードで順繰りに伝わる必要がある、という考え方(厳密には少々違うがわかりやすく言うと)。

アインシュタインが確立した特殊相対性理論では、「制御可能な情報や因果的影響を光速を超えて伝えることはできない」とされている。

この2つの考え方は、現代物理学上、とても納得感のある考え方でもある。
ところが、量子力学では奇妙な現象が現れる。

量子もつれ状態にある粒子を離れた場所で測定すると、その測定結果には、古典的な局所理論では説明できない強い相関が現れる。

しかし、一方の測定結果を自由に選ぶことはできないため、この相関を利用して光速を超えて情報を送ることはできない。

アインシュタインは、遠く離れた2つの粒子の間にこのような相関が現れる量子力学の記述に強い疑問を持ち、量子力学は自然の完全な記述ではないのではないかと考えた。彼にしてみれば、到底受け入れがたいものだったのだろう。

話が脱線してしまった。
このアインシュタインと量子力学派の対立には続きがあって、「EPRパラドックス(1935年)」とか「ベルの不等式(1964年)」とか「アスペの実験(1982年)」などなど面白いのだが、主題はそこではない。

「量子もつれ」と「スピラミン」は似ているが、ここはSFと現実をきちんと分ける必要がある。
量子もつれを使って、地球から火星へ瞬時にメッセージを送ることはできない。
任意の情報を光速より速く伝達することは、現在の物理学ではできないと考えられているからだ。

だからスピラミンは、やはりフィクションである。

しかしSFとして面白いのは、その先だ。

「そんな物質が存在するのか」ではなく、
「もし存在したら、人間にとって距離とは何になるのか」
という問いである。

物語では火星へ移住した人々が登場する。
地球とは何千万kmも離れている。
普通なら、そこには必ず通信の遅れがある。
地球で何かが起きてもすぐには分からない。
火星で何かが起きても地球はすぐには知ることができない。
その時間差は、やがて文化や社会、人間関係にも影響するだろう。

ところが、その隔たりを無効にするものが突然現れたらどうなるのか。
現代で言うと、火星は「外国」のような扱いになるのか。
いや、今や外国であっても通信手段が整備されていて、普通に電話でほぼリアルタイムに会話が成立するから、それよりさらに遠い存在になるのか。

逆に時代を遡れば、例えば日本でいう「戦国時代」のように、移動は馬が一番早くて、基本は歩いて移動する、となると、なんらかの情報を伝達するのに早くても数日、人が移動するとなると数ヶ月を要する。
そのような時代に逆戻りしたような構造になる。

本書がスピラミンによって触れているのは、通信技術そのものというより、人間にとって「離れている」とはどういうことなのかという問題なのだと思う。


Unsplash NASA Hubble Space Telescope NASA Hubble Space Telescope

フォボスの砂が地球へやってくる

もう一つ、気になっている現実の計画がある。
JAXAの「MMX(Martian Moons eXploration)」である。

  • MMX – Martian Moons eXploration
    https://www.mmx.jaxa.jp/
    MMXは2026年度の打ち上げを目標として進められている火星衛星探査計画だ。
    目的地は火星そのものではなく、その衛星フォボスである。
    探査機はフォボスへ降り、10g以上の試料を採取し、2031年に地球へ帰還する計画になっている。
    成功すれば、火星圏からの世界初のサンプルリターンとなる。

フォボス表面には、過去に火星へ天体が衝突した際に飛び出した火星由来の物質が混入している可能性もある。
もちろん、MMXが「スピラミン」のような未知の鉱物を探しているわけではない。
生命発見を目的としたミッションでもない。

それでも考えてしまう。
火星圏にある物質を、人類が実際に地球へ持ってくることの重大さ。
SFの中では何気なく行われることだが、現実では途方もなく難しいだろう。
その境界線を、私たちはいま少しずつ越えようとしているのだ。


火星の見え方に変化

本書は、火星科学について学ぶための小説ではない。
未来予測の本でもない。
だから、InSightによる地下水研究やCuriosityの単体硫黄、MMX計画を並べて、
「小川哲は未来を予言していた」
と言いたいわけでもない。

むしろ逆である。
小説を読んだことで、現実のニュースを見る側の自分が変わったのである。

以前なら「火星地下に水がある可能性」「火星で単体硫黄を発見」「フォボスから試料を持ち帰る」というニュースを、それぞれ独立した宇宙ニュースとして読んでいただろう。
しかし本書を読んだあとでは、それらが一つの問いにつながって見える。
火星には、何があるのか。
人類は、どこまでそこへ近づけるのか。
そして地球と火星を隔てているものは、本当に「距離」や「時間」だけなのか。


Unsplash nader saremi nader saremi

スピラミンが縮めたのは、地球と火星の距離だけではない

考えてみれば、SFというもの自体が少しスピラミンに似ている。
現実には存在しないものを一つ置く。
そして、
「もし、これが本当にあったら?」
と考える。
その瞬間、それまで遠くにあった未来が、急に現在の問題として見えてくる。

それは「スピラミン」のように私の脳内の「結晶構造」が瞬時に変わったから。

「スピラミン」は実在しない。
現在の物理学では、それを使ったような超光速通信もできない。
火星地下に生命が見つかったわけでもない。
単体硫黄が未知の超物質だったわけでもない。

それでも、私はこの小説を読む前より火星について調べている。

地下に水がある可能性を面白いと思い、Curiosityが割った岩の中身が気になり、MMXが持ち帰る10gの砂に興味を持つようになった。

そう考えると、『火星の女王』のスピラミンが縮めたものは、作中の地球と火星の距離だけではなかったのかもしれない。
少なくとも私にとっては、この小説そのものが、現実の火星までの距離を少し縮めた。
読み終えてから火星のニュースが以前より気になる。
それだけでも、SFを一冊読む理由としては十分なのではないだろうか。

#火星の女王 #小川哲 #火星 #SF #サイエンスフィクション #宇宙探査 #NASA #JAXA #MMX #Curiosity #InSight



gladdesign-blog-CrazyOneをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

gladdesign-blog-CrazyOneをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む