【BOOK】『ある男』平野啓一郎:著 人は他者によって自分を愛せる生き物

man standing on top of mountain
Photo by Tim Bogdanov on Unsplash

人は自分のことがわからない。自分以外の、例えば鏡などを用いないと自分の顔を見ることもできない。
自分を知るためには他者が必要で、他者と過ごした時間の濃密さによって自分自身の幸せの深さも得られるのではないだろうか。
だからこそ、我々は物語というフィクションを信じることで生き続けて来れたのだろう。
人間存在の根源に迫る一冊。

ある男 (文春文庫 ひ 19-3) | 平野 啓一郎 |本 | 通販 | Amazonより引用:

愛したはずの夫は、まったくの別人であった――。
「マチネの終わりに」の平野啓一郎による、傑作長編。

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。
ところがある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に、「大祐」が全くの別人だという衝撃の事実がもたらされる……。

愛にとって過去とは何か? 幼少期に深い傷を負っても、人は愛にたどりつけるのか?
「ある男」を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。

まったく見ず知らずの人間になりすまして生きていくということが、果たして可能なのだろうか?
現代の日本は法治国家である。
憲法の下に法律が定められ、法律によってあらゆる問題を解決しようとする。
しかし、法では解決できない、人間の心の問題もあるのではないだろうか。
本作を読んで正直に感じた感想である。

里枝は離婚後、実家がある宮崎に帰り、そこで出会った「谷口大祐」と再婚した。
離婚時の連れ子とともに、「谷口大祐」との間にも子供も儲け、4人家族となった。
「谷口大祐」は過去をあまり語らなかった。
実家は温泉旅館で、自分は次男坊、旅館は長男が継いでいるという。
そりが合わず、実家とは疎遠になっているため、連絡は取り合っていない。
ここまでは、まあよくある話だろう。

そして、結婚から3年経った頃、仕事中の事故で「谷口大祐」は亡くなってしまう。
一周忌に合わせて、お墓の問題もあって温泉旅館に連絡をすると、
「谷口大祐」の長男がやってきて、遺影を見て「弟ではない」という。
ではいったい誰なのか?
ここから「ある男」を巡る物語が動き出す。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

愛に過去は必要なのか

人間が本当にその人間であることを、どうやって証明できるのか、
というシンプルで当たり前だと思っていたけれど当たり前ではないということを、いったいどう考えたらいいのだろうか。
日常生活で本人確認の機会は、そんなに頻繁にあるわけではない。
ただ、まったくゼロというわけでもないので、最低限困らないように運転免許証は常に持参している、という人がほとんどだろう。
運転免許証がなければ、あとは健康保険証だろうか。成人していれば、どちらかは持っている、という前提で社会は成り立っている。
確かにそこに住んでいる、ということを証明するためには、住民票が必要だが、これは期限があるので都度取得しなければならない。故に利便性は低い。
そういう不便さを解消出来うる可能性があるマイナンバーカードは、未だ普及率が伸び悩んでいるのが現状だ。
つまり、本人確認の必要性がそこまで逼迫していない日常においては、自分が誰であるか、他人が本当にその人なのかを、そもそも気にする必要もないわけだ。

結婚に関しては、一昔前、昭和の時代くらいまでは、相手方の身元を調査する、といったことも普通にあったと聞く。
だが、特に資産を持っている家柄であればわからなくもないが、庶民において、そういった「身元」や「出自」にこだわることはなくなってきているだろう。
お付き合いした相手が、名を名乗り、自身の過去を語ることをいちいち調べたりしていたら、きりがないし、そういう疑いを持つこと自体に嫌悪感があるのはいたってフラットな感覚ではないだろうか。

本作の書籍の宣伝コピーに、「愛にとって、過去とはなんだろう?」という言葉が鎮座している。
結婚しようと思った人がいても、その人の過去や本人確認を入念に行うことは、上記の通りほぼないのが現状だ。
だからこそ、本作のように戸籍を交換して、なりすましていたとしても、わからないのが普通なのかもしれない。

ネットやテレビでのニュースで知りうる限りだが、戸籍を交換する人たちが多数いるという事実は、少なからずショックである。
だが、どうやら戸籍の交換だけであれば、法的には罪にはならない、という情報もある。
(もちろん、戸籍を変えていることで、何らかの行政上の書類などを入手しようとした時点で犯罪になるようなので、戸籍交換はほぼ犯罪として見なしてもいいと思われる)

里枝にとって、「谷口大祐」こと「X」と過ごした時間は、紛れもない「事実」であり、里枝自身も「幸せだった」と感じているだろう。
同時に、城戸が調べ上げた限りの情報を突き合わせても、「X」自身もまた幸せだったのだろう。

人は、体験や時間を共有することで、はじめて「愛する」ことができるのではないだろうか。
だから、愛に「過去」は必要なのか、と問われたら、「過去」というよりは、「一緒に過ごした時間」が必要で、それがやがて「過去」になり、より深く結びつきを強くでき得るのだろう。

man and woman dancing at center of trees
Photo by Scott Broome on Unsplash

他者を愛することと自分を愛すること

著者である平野啓一郎氏自身がTEDTALKで語っている。
(2) Love others to love yourself | Keiichiro Hirano | TEDxKyoto 2012 – YouTube

ここで平野氏は「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」と述べている。
他者を通して自分を知り、その関係性が良好であれば自分自身を肯定でき、結果として自分を愛することができるのである。
本作においても、その主張は芯を食っていて、「谷口大祐」になりすました男「X」は、戸籍を交換し「上書き」していくことで、過去の自分を捨てて、自分を肯定できるようになった。
つまり自分を肯定するということこそが、自分を愛することができた、と言えるのだろう。
だからこそ、里枝という他者をも愛することができたのではないか、と思う。
里枝の連れ子である悠人にも優しく接することができたのも、自分を愛することができたことから、不幸だった自身の少年時代に父親にして欲しかったことをできていたのだろう。
「愛する」ということは、相手にベクトルが向いた作用だけではなく、自分に向いた作用でもあるのだろう。

person covering the eyes of woman on dark room
Photo by Ryoji Iwata on Unsplash

映画化は小説の「翻案」

2022年11月に公開されており、本作をAudibleで読聴したのち、すぐに映画を観た。
すでに公開開始から日が経っており、上映されている映画館が神奈川県では一つだけとなっていた。
横浜市港南区の港南台シネサロンに観に行ってきた。

映画の特設サイト

映画化にあたって1冊の小説を2時間に収めるために、やむなく削ったりすることはやむを得ないし、それは自明の理だろう。
本作では、小説とは違った流れや表現があったものの、それは小説の意図したことを映画側が汲み取った上で違った表現に落とし込んだということがよくわかる作りになっていた。
ただ、原作を読まないで映画だけを観た人にとっては、ややわかりづらい内容になってしまっていたかもしれない。と思った。

映画の冒頭(とラスト)に出てきた絵画は、ルネ・マグリットの『不許複製』という絵画らしい。

男が鏡に向かっている。我々からは男の後ろ姿が見える。
だが、鏡にはその男の正面の顔ではなく、同じ後ろ姿が見えている。
現実にはあり得ない構図で、絵画ならではの表現ではある。
ただ、非常に不気味に見える。見ていて不安になるのは、私だけではないだろう。
この絵画がどういう意味を持つのか?
これは非常に解釈が難しいと感じた。

自分という人間は、いかようにも複製などできないのだ、というメッセージにも受け取れるし、自分に向き合ってくれる人など存在しない、人は皆、自分だけが好きなのだ、という哀しい孤独を表現している、とも考えられる。

aerial photography of vehicular road
Photo by John O'Nolan on Unsplash

新しい人生を生きることへの切望

終盤、ギリシア・ローマ神話のオウィディウスの『変身物語』の「ナルキッソス」と「エコー」の話がある。

ナルキッソスは、ただ自分の姿の反射だけを見て、自分しか愛することが出来ない。エコーはと言うと、他人の声を反響させるだけで、自分自身の存在を愛する人に知ってもらうことが出来ないのである。
自分だけの世界に閉じ込められているナルキッソスと、自分だけこの世界から閉め出されているエコー。―――けれども、この孤独な二人は、ナルキッソスが死ぬ瞬間、ただ、「ああ!」という嘆きの声で呼応し合い、「さようなら。」という別れの挨拶は交わすことが出来たのだった。


ナルキッソスは違う自分になりたかった。でもなれなかった。
物語を読む私たちもまた、彼らと同じ、「変身」を味わうことで救われている。
戸籍を変え、違う人間に「上書き」していく登場人物たちを、一概に「愚かだ」と断ずることが果たしてできるだろうか。
誰しも、小説や漫画や映画を通して、登場人物に自分を重ね、日常から一時でも解放された時間を過ごす。
傷ついた登場人物に出会うことでしか癒やされない孤独がある、と城戸は言う。
そうして、日常に戻った後もまた、生き生きと人生を謳歌できる、ということを繰り返すことがあるだろう。
物語を読むということは、他者の人生を疑似体験することで、自分自身をメタ認知する行為であり、そうしてようやく自分という存在を愛することができるようになるのだ。

小説では中盤、城戸が宮崎へ出張へ行った際のバーで、映画ではラストで、城戸は初対面の男性に「谷口大祐」としての過去を語っている。
あたかも、「谷口大祐」であるかのように。
(城戸の妻が浮気をしているのではないかという家族での外食シーンを理由に、城戸が戸籍を変えて谷口大祐になった、という解釈をしているネット記事やYouTube動画があったが、これは勘違いであろう。小説ではそれははっきりと否定されている。ただ、映画だけを観ると、そう解釈してしまっても仕方がないような表現になっていたが)
これは、どういう意味があるのだろうか。
私が思うに、このくだりは、今とまったく違う人生を送っていたとしたらどうなんだろう、という誰でも一度は考えたことがあるような、ささやかな願いをいたずら心で描いてみたのではないだろうか。決して今の人生に不満や問題があるわけではないが、もしそうだったら、と夢想するくらいには、人生は自由でいいと思うし、それくらいしんどいものでもあるのだから。

本作は、そういった意味でも、愛される作品であり、愛すべき作品でもあると思う。
人生において、出会ってよかったと思える作品は限られると思うが、本作はその心の本棚に置いておきたい1冊である。


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