【BOOK】『ミッドナイトジャーナル』本城雅人:著 嘘を見抜く目、嘘をつかない矜持

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「それはジャーナルなのか?」
忙しさで目が回る毎日の中で、いかに芯に情熱を持ち続けることが出来るか、お前にはそれがあるのかと問われている気がした。
他紙に抜きつ抜かれつするスクープ合戦は、時として上司の命令に背かなければ得られないこともある。
中央新聞さいたま支局の関口豪太郎は連続少女連れ去り未遂事件を取材する中、七年前の連続幼女誘拐事件での誤報を思い出す。
単独犯で結審したが実はもうひとり共犯者がいるのではないかと気づいていたにも関わらず、報道しなかったことで次の事件が発生するのではないか、という焦りが連日の取材の疲れを倍加させる。
新聞記者と警察官の欺し欺される夜討ち朝駆けの取材攻防。
元新聞記者の著者ならではの圧倒的にリアルな現場のやり取りに隠された、犯人への怒りと組織の論理との間に揺れる葛藤が、読む者の胸を討つ。

ミッドナイト・ジャーナル | 本城 雅人 |本 | 通販 | Amazonより引用:

「被害者女児死亡」――世紀の大誤報を打ち、飛ばされた3人の記者。その七年後、児童連続誘拐事件が発生。さいたま支局の関口豪太郎はかつての事件との関連性を疑い、東京本社の藤瀬祐里は豪太郎の応援に合流し、整理部員となった松本博史は二人を静観する。間違っているのかもしれない。無意味なのかもしれない。しかし豪太郎は諦めない。タネを撒き、ネタに育て、真実を獲得するため、今日も真夜中に動き出す。
特別な結果を出すのは、いつだって、本気の人間だ。

「新聞」の意義

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1970年〜80年代生まれであれば、幼少期にはどの家庭でも新聞を購読していただろう。
それ以降の生まれだと、新聞を購読していない家庭も増えてくるか。
それくらい、新聞が家庭にあることは自然だったため、小学生の頃から新聞を読むことに抵抗はなかった。
もちろん小学生はテレビ欄(ラテ欄)と四コマ漫画が入り口だ。
そのうち、スポーツ欄でプロ野球の結果を見たり、地域欄でニュースに目を通すようになる。
一面のトップニュースが気になるのはもっとずっと成長してからの話だ。

21世紀になってからすでに20年以上経った。
新聞の発行部数はかなり減少しているようだ。


日本新聞協会が発表しているデータによると、全ての新聞の総発行部数を合計した数値では、2000年に5370万部(世帯数4741万世帯)。
それが、2022年には3084万部(世帯数5822万世帯)にまで減っている。
1世帯あたりの部数で見ると、1.13から0.53に推移していることから考慮すると、2000年当時は1家庭に1部か2部購読していたが、2022年には2世帯に1世帯しか購読していない、ということになるだろうか。
感覚的にはほとんどの家庭で新聞購読をやめているのではないかと感じているが、それでもなんとか続いているところもあるということか。
それとも、企業や事務所、店舗などでの購読に支えられているということか。

よく新聞購読が減少しているのはスマートフォンの普及が原因だ、という主張を見かける。

たしかに一つの理由として考えることは可能だろうが、果たしてそうだろうかと私は疑問に思っている。
スマートフォンが普及する以前に新聞でニュース情報を得ていた人が、スマートフォンの普及や高機能化によって新聞購読をやめてスマートフォンでニュース情報を得るようになった、と考えるのはやや無理があるのではないかと思う。

スマートフォンが普及する以前に新聞でニュース情報を得ていた人は、スマートフォンを所持するようになって、高機能化もあって、かつて新聞を読んでいた時間をニュース情報を得ること以外に使うようになった、というのが正確なのではないだろうか。

スマートフォンが普及し始めたころのデバイスの大きさを考えると、とてもではないがこの大きさで新聞のようなレイアウトでは読むことが出来ない。
通常のWEBサイトと同様に、横書き文章で下方向へスクロールしていく構造にならざるを得ない。
トップページから個別のニュースを「読む」ためには、階層化されたサイトを深く深く潜っていくことになる。

一方、紙の新聞は一覧性がある。
一面の大きな見出しからなるトップニュースは、その日一日で最も話題性の高いニュースであることを示している。
社説欄や政治面、経済面、生活面など、大きなカテゴリごとに大小様々なレイアウトで組まれた紙面で広く見たり、気になるニュースがあれば集中して読むことができる。
ニュースに重み付けがなされているということは、新聞社からのバイアスがかかっているとも言えるが、読むべきニュースをナビゲートしてくれている、と考えることもできる。

ネットのデジタルデータを読むことと、紙の新聞を読むことは、根本的に情報の摂取方法が異なるのだ。
どちらが良い悪いということではなく、スタンスの違いだろう。

だが、新聞の発行部数の減少傾向は加速しているし、今後復活することは、まずないだろう。
人々の情報の摂取方法も、どんどん多様化している。
みんながGoogleで検索していたのに、Instagramのタグやおすすめで流れてくる情報を得るようになり、TikTokのように偶発性の高い情報の接し方をしている。
そしてchatGPTの登場によって、相談したり質問したりしながら情報を得るようになってきている。

速報性はネットやテレビには勝てず、一覧性はあるものの紙面スペースに限りがあるため詳細性は犠牲になる。
そんな時代に新聞の意義とは何だろうか。
本作では、新聞の存在意義は「ジャーナル」であることだと描いている。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

「ジャーナル」の意味

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報道に携わる人間、きちんと取材をする人間を「ジャーナリスト」という。
報道に対する姿勢や使命感のような精神的なものを指すには「ジャーナリズム」という言葉もある。
だが、関口豪太郎は「それはジャーナルじゃないなあ」というのが口癖だ。
藤瀬はあるとき関口豪太郎に聴いた。
なぜ、ジャーナリストでもなくジャーナリズムでもなく、ジャーナルと言うのか。
ジャーナルを直訳すると「日誌」「(定期的な)刊行物」「日刊紙」になる。

豪太郎は言う。

「真実の多くが、誰かの都合によって隠され、捻じ曲げられているからさ。それらを一枚ずつ引っぺがして真実まで辿り着く。そしてそれらを検証して、自分の言葉で記事にするのが俺たちの仕事じゃねえか」

これだけなら、ジャーナリズムでもいいし、ジャーナリストでもいい。
どうして「ジャーナル」なのか。

「それはやっぱり、俺たちは新聞記者だからだよ。ジャーナリストのように、時間を掛けて、相手の懐に深く入り込んで、すべてを聞き出すことも大事だけど、俺たちには締め切りがあって、毎日の紙面も作らなければならない。きょうはネタがありませんと言って白紙の新聞を出すわけにはいかないからな。<時間をかけず>かつ<正確に>と相反する二つの要素を求められる」

取材対象に対して深く切り込んでいく姿勢は必要だが、取材である以上、取材対象に何らかの影響があり、バイアスがかかってしまうことには無自覚であってはならない。
それはまるで、科学者が実験において自然現象や実験者自身の存在そのものが実験に影響を与えていることを考慮するように。

ニュースに対して真実を報道していくうえで、1日という区切りを定期的に維持することには、大いに意義があると思う。
事件や事故などでニュースバリューが大きいほど関係者が多くなる。
人が多く介在すると必ずと言っていいほど「嘘をつく」人間が増えてしまう。
だからこそ、今この時点ではここまで分かっています、という「嘘の無い」報道によって、救われる人の気持ちや命があることを大切にされる社会であって欲しいと願う。

<時間をかけず>かつ<正確に>という相反する要素をバランスを保ちつつ両立させることは、おそらく週刊誌やネットニュースとは相性が悪い。
週刊誌はセンセーショナリズムが過ぎるし、ネットニュースに求められているのは速報性だからだ。
その点、新聞という媒体はバランスを調整することがギリギリ可能な媒体であると思う。

今や速報性ではテレビやネットニュースには勝てない。
人々の興味関心を喚起するのは週刊誌に分がある。
ディープなアンダーグラウンド性はラジオが向いている。

だが、新聞には新聞の、歴史や得意分野がある。
正確で裏取りのある情報を、早く確実に届けるのは、新聞の矜持であろう。
真実が垣間見える「真夜中(ミッドナイト)」に、取材対象に張り付いてネタを取ってくる新聞記者の独壇場でもあるのだ。

妄想キャスティング

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Photo by Khadija Yousaf on Unsplash

映像化は2018年に単発ドラマとして放映されていたようだ。
ぜひ本作は連続テレビドラマとして映像化してほしい。
何度も現場へ取材に行っていることや、ネタをとるために警察幹部へ何度も接触するなどの丁寧な下地作りが取材には欠かせないことを伝えるには、単発ドラマや2時間の映画では短いのだ。

単発ドラマ版とは違うが、私が思い描く妄想のキャスティングはこういう布陣だ。
主人公・関口豪太郎は、小栗旬。これは読み始めてすぐにイメージが固まった。
藤瀬祐里は、松下奈緒あたりがいい。松岡美優もいい。
松本博史は、松下洸平でどうだろうか。
社会部長の外山は、遠藤憲一だろう。
元東都新聞の二階堂實は小日向文世。これは単発ドラマ版と一致。

こんなに具体的にキャスティングが思い浮かぶ小説はなかなかない。

著者の本城雅人さんは元サンケイスポーツの記者ということで、他作品には野球関係の小説も多数あるようなので読んでみたいと思う。


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