【BOOK】『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ:著 「家族」の必須条件

girl running on green field
Photo by Kelly Sikkema on Unsplash

血の繋がらない親子。
という設定だけを聞くと、お涙頂戴物のイメージが先行してしまうが、どうもそうでもない気がする。
2019年の本屋大賞を受賞。帯にも「著者会心の感動作」とある。
だが、私にはそういう感想はあまり沸かなかった。
どこにそんな感動ポイントがあったのか分からず、しばし悩んだほどである。


そして、バトンは渡された (文春文庫) | まいこ, 瀬尾 |本 | 通販 | Amazon

森宮優子、十七歳。継父継母が変われば名字も変わる。だけどいつでも両親を愛し、愛されていた。この著者にしか描けない優しい物語。 「私には父親が三人、母親が二人いる。 家族の形態は、十七年間で七回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」 身近な人が愛おしくなる、著者会心の感動作

「家族」のアンチテーゼ

主人公・森宮優子はいつも愛想が良く、誰からも嫌われないように行動できる上、自分の機嫌を自分でとれる人なのだなと思った。
年齢の割には妙に大人びているにも関わらず、かといって先輩風を吹かす訳でもなく、おとなしい性格なのだなと。
ただ、読了して気づいたのは、優子は幼少期からあまり成長していないのではないか、ということだ。

本作が描いていたのは、従前の「家族」というイメージに対するアンチテーゼを示しているのではないだろうか。
優子は実の親との暮らしよりも、血のつながりがない親たちとの時間の方が長くなっていた。
その間、一貫して「いい子」であり続けた。
二番目の母親・梨花の「いつも笑っていなさい」という言葉を守り続けたのだろう。
周りの大人たちからは、家庭環境が複雑だからかわいそうと思われていたが、本人は淡々としていた。

「親と子は血のつながりが大切」だとか、「親と子は言葉にしなくても通じ合うものがある」だとか、「血の繋がらない親子は不幸」などとよく言われているが、そんなものは幻想でしかないと私は考える。
日本では古来より「家」という単位がコミュニティの最小単位として機能していた。
百姓の家では先祖代々百姓であり、子も孫もずっと百姓として生きていくことが決まっていた。
親と子で分かり合うとか信じ合うとかいうことよりも、生きていくために各々の役割を全うし、仕事をしていくことが優先されていた。
武家であれば家督を継いだら当主として家を運営していかなければならない。
分かり合うとかよりも、その役割を全うすることが大切だったのだ。
そう考えれば、最小単位は「家」でありながらも、実質的には村や地域単位で生計を回していたとも言えるだろう。

転換点は明治維新あたりで全国民に「姓」を名乗ることが許されてからであろうか。
武家だけでなく百姓も皆「姓」を名乗ることで、より「家族」という単位が重視されるようになった。

だが、昭和の戦前までは、子どもは「家」にとっての「労働力」でもあった。
子どもが多く生活が苦しくなると、「奉公」にいう名の「口減らし」が行われていたのだ。
朝ドラの『おしん』の世界のように。

現代では、親子関係はもっと多種多様であっていいし、現実的に多様であるはずだ。
画一的な姿に見えているとしたら、それはその人が周りをよく見ていない証左である。

親と子は別々の存在

family holding hands
Photo by Heike Mintel on Unsplash

子は親を選べないという。
いわゆる「親ガチャ」というやつである。
逆に、親も子を選ぶことは出来ない。
出生前診断などで生まれる前に病気や障害を発見する医療技術は進んでいるが、それも万能ではない。
生まれてみたら障碍があった、あるいは成長するに従って障碍が見えるようになってきた、という例は枚挙にいとまがない。
だからといって「子ガチャ」とは言わない。
言ったところで仕方がないからである。
「親ガチャ」も同様である。言ったところで何にもならない。
もし、愚痴や不平不満として「親ガチャ」を使っているとしたら、馬鹿としか言いようがない。

血のつながりをこれ以上ないくらいに信奉するのも、いかがなものかと思う。
親と子の関係において、縄文時代ならいざ知らず、現代においては何らの意味も持たないと考えて差し支えないだろう。
「血の繋がらない親子は不幸だ」という人は、里親制度に反対なのだろうか?
里親になっている人に面と向かって言えるのだろうか?

血のつながりがあるからといって親と子はわかり合える、と言う人にも要注意である。
何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。
もし、本当にそうであるなら、児童虐待は起こらないことになる。
しかし、現実はそうではない。

厚生労働省の2021(令和3)年度の「児童相談所での児童虐待相談対応件数とその推移」の速報値によると、2021(令和3)年度中に、全国225か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は207,659件(速報値)で、過去最多である。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000987725.pdf

厚生労働省_児童虐待件数
児童相談所での児童虐待相談対応件数とその推移

2009(平成21)年度は44,211件だったことから考えると、異常な増え方である。

主な増加要因としては以下の理由が考えられるとして掲載されている。
○心理的虐待に係る相談対応件数の増加
(令和2年度:121,334件 → 令和3年度:124,722件(+3,388件))
○家族親戚、近隣知人、児童本人等からの通告の増加
(令和2年度:46,521件 → 令和3年度:47,948件(+1,427件))
○虐待相談窓口の普及などにより、家族親戚、近隣知人、児童本人等からの通告が増加。
(令和2年度と比して児童虐待相談対応件数が増加した自治体からの聞き取り)

厚生労働省が挙げている増加要因は、あくまでも統計的に類推したものにすぎない。
理由となるのは他にもたくさんあるだろう。
これだけ社会が急激なスピードで変化しているなかで、親と子との意識のずれは、どうしても発生してしまう。
親が青春期を過ごした時代と子が今現在生きている時代とで、社会情勢も法律も生活に対する価値観も、あらゆるものが変化している。
「分かり合う土壌」は限りなく小さく狭い。
分かり合うための因子が多くなりすぎて、相対的に「血のつながり」という因子の存在感は小さく薄くならざるを得ない。
そうした現実に目を背けて、暢気なことを言っても仕方がないではないか。

親と子は、違う人間である。
たとえ遺伝子的な関係があったとしても、同一の人間ではない。
遺伝関係だけでわかり合えるだの愛し合えるだのと言うのは、現実を直視する気がないのだろう。
人間の脳は見たいものだけを見るように作られているらしいので、あながちそれは自然な行動なのかもしれないが、数字によって表れている現実を捻じ曲げることはできない。

他人と過去は変えることが出来ない。
変えることができるのは、自分と未来である。
自分の子であっても、他人である。自分ではないのだ。
他人である子どもを、自分の都合の良いようにどうにかしようとしても、所詮違う人間なのでどうにもできない。

そう言うと、自分の子どもは他人ではない、という人がいる。
この世界には人間は2種類しかいない。
「自分」と「自分以外の他人」だけである。
自分の子どもは他人ではないという人は、3種類目があると言うのだろうか。

ーーーネタバレ注意!ーーー
ネタバレ注意

全ての親はひどい生き物である

2 person walking on gray concrete pavement
Photo by Suzi Kim on Unsplash

本作では、森宮優子は親が次々と変わっていき、そのたびに名字が変わるという人生を送ってきた。
実の母親は優子がまだ幼いころに亡くなっている。
実の父親・水戸秀平は仕事でブラジルに移住しようとするが、優子は義母・梨花とともに日本に残ることに。
日本からブラジルへ手紙を送り続けていたが一度も返信はなかった。

だが実は、梨花は優子が書いた手紙をブラジルへは送らず、ブラジルから届いた秀平からの手紙も優子に見せることはなかった。
これがラストへ向けての伏線となるわけだが、端から見れば酷い話である。
子どもである優子本人が最終的に梨花を許すというか、憎むことなく愛されていたと感じているので、周りがどうこう言うことではないのかもしれない。
だがしかし、酷い話である。
親であろうと他人であろうと、これはやってはいけないことだろう。

二番目の父親・泉ヶ原茂雄は、父親というよりも祖父のような印象。
優子に対してというよりも、梨花のいうことならなんでも聞いてしまう。
お金はあっても、若い女に欺されているおじさんである。

三番目の父親・森宮壮介は東大出のエリートで、人との競争は苦手。
梨花との結婚後に優子がいることを知らされたが、優子のことは大切にしている。
が、大切にする手段が独特でマイペースである。
やたらと手料理を振る舞い、父親ぶりたがる。

こうして見ると、どの親たちもひどいものである。
ただ、やっていることは酷いのだが、優子のことをとても大切に思っている点だけはブレていない。

世の子を持つ親なら同じように、完璧な親など存在しない。
子は言うことを聞かず、こちらの思い通りにはならない。
よかれと思ってしたことが、跡になって「転ばぬ先の杖」よろしく無用な手助けだったと知る。
どの親も、ひどいのである。

映画は小説とは別物


本作は映画化され、大変話題にもなった。

キャスティングが大変豪華なので、それなりにエンタメとしては成立していた。
が、ストーリーは原作からかなり変わっており、そこは賛否両論あったようだ。

原作を読んでから映画を観ると、その設定の違いが大きく感じられた。
詳細は割愛するが、映画は明らかに「お涙頂戴エンタメ」に振り切っていたように思う。
映画として商業的な成功を収めるには、普段から本を読まない層にもリーチしなければならないので、方向性としては仕方がない面もあるだろう。
登場人物のイメージも、かなり変わっていたように感じた。
優子は原作では淡々としたイメージだったが、映画では感情の起伏が激しく、親を困らせる泣き虫なキャラクターとなっていた。

バトンをつなぐこと

『そして、バトンは渡された』というタイトルの「バトン」は紛れもなく優子本人であろう。
つまり、子どもを指している。
血のつながりはないが、優子を愛し、幸せにしたいと願った複数の親たちによるバトンリレーである。
バトンを渡されたのは、優子の結婚相手である早瀬。
本作は、血のつながりに関わらず、子どもを幸せにしたいと願う者が、バトンをリレーするように次の「走者」へとつないでいく物語であり、それこそが「家族」の持つ意義であると説いている。
血のつながりが家族の絶対条件ではなく、バトンをつなぐことが大切なのだと。


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