女優志望だった風俗嬢・上田朱美が殺された。
生前、殺した男に何の気なしに語られた言葉は、12年前の未解決事件への関与を仄めかしていたことから、再捜査が動き出す。
今はもう最前線にはいない合田雄一郎刑事は、警察大学校で教鞭を取りながら、過去の過ちを反芻する。
大人の人生の薄昏さと、若者が抱くやり場のない怒り。
母と娘との間の「呪い」あるいは「毒親」的な振る舞いは、現実と記憶の狭間で微妙に薄汚れていく。
圧倒的な解像度で綴られる2005年と2017年の空気、そして今は亡き「少女A」を取り巻く関係者の、確かにそこに生きていた証のように、ため息が漏れている。
合田雄一郎シリーズ最新作にして圧倒的な傑作。
一人の少女がいた――
合田、痛恨の未解決事件12年前、クリスマスの早朝。
東京郊外の野川公園で写生中の元中学美術教師が殺害された。
犯人はいまだ逮捕されず、当時の捜査責任者合田の胸に、後悔と未練がくすぶり続ける。
「俺は一体どこで、何を見落としたのか」
そこへ、思いも寄らない新証言が――
動き出す時間が世界の姿を変えていく人々の記憶の片々が織りなす物語の結晶
本作は「合田雄一郎刑事シリーズ」の最新作である。
著作の中でも人気の高い「合田雄一郎シリーズ」は現在までに6作発表されている。
1. マークスの山
2. 照柿
3. レディ・ジョーカー
4. 太陽を曳く馬
5. 冷血(上) (新潮文庫)
前作『冷血』が2012年発行、本作は2019年発行(初出は2017〜2018年の毎日新聞)なので、実に7年ぶりに合田雄一郎が帰ってきた、というわけである。
その合田雄一郎刑事は、シリーズ1作目・1993年発表の『マークスの山』ではまだ30代で警視庁捜査一課だったが、本作ではすでに50代後半、警察大学校で教鞭をとっている。
「もともと、警察小説を書くというのは、私にとっては警察に対する違和感との戦いで、合田というのはそれを表す人物です。作品を発表するごとに合田も年を重ね、『冷血』のときの階級は警部で、現場で捜査をする立場ではないのでかなり書きにくかった。警察小説は現場に出てこそですから。今回は、警察大学校の教授という一線から引いた存在にしました」
事件の発端は2017年、上田朱美が同棲していた男に殺害された事件だ。
捜査の中、絵の具のチューブが発見され、12年前の未解決事件の証拠品ではないかという疑惑が湧き上がる。
その12年前の事件とは、2005年12月25日早朝、武蔵野の野川公園で栂野節子の死体が発見された事件である。
犯人を特定できず、未解決のまま捜査が終了。
その時の捜査の責任者が合田雄一郎だったのだ。
とはいえ、合田は本作の「主人公」ではない。
主人公は1人ではない。
上田朱美=少女Aを中心とした複数の人物たちの群像劇でもある。
ふたつの事件は、こう言っては何だが大きな事件、というわけではない。
昨今の凶悪犯罪に比べると、どうしても地味な印象である。
だが本作の狙いは、事件そのものを追うことでもなく、謎解きの物語でもはなく、事件を取り巻く人間たちの小さくはないそれぞれの問題との対峙を描きながら、市井の人々の暮らしや営みに寄り添いながら、それぞれの人生を描いているのだ。
「今は、大量殺人や猟奇殺人など、現実に起きる事件のほうが凄まじいでしょう。今回は、事件そのものはあまり目立たない、地味なものにしたかった。そのことによって、逆に、事件に巻き込まれた登場人物ひとりひとりの人生を際立たせていきたかった。世の中には、色々と大変な状況に置かれている人達が沢山いますが、本人たちは問題を何とか乗り越えようとして、懸命に生きています」
本作は新聞連載という形式で綴られた点も注目すべきポイントだろう。
書き下ろしであれば明確なプロットを緻密に組み上げてからストーリーを練っていくことが可能だろうが、新聞連載という形式ではそうもいかない。
一度書いたものをやっぱり無かったことにしてこっちの話を先に、というわけにはいかないのだ。
だからこそ、なのか、ある視点人物の独白調の語りがあって、ひと段落すると最後に語られた他の人物の視点に移動する。
そしてその人物の視点での語りが続いていく、という構成になっている。
驚くべきはその「観察眼」である。
まるで本当にそういう人が武蔵野に暮らしていて、何年にも渡ってまるで親戚のおばさんのように成長を見守ってきたのではないかというくらいに、詳細に、精緻に、登場人物ひとりひとりが描かれている。
殺された上田朱美の同級生、栂野真弓は母親の雪子と折り合いが悪く、祖母であり野川公園で死亡した栂野節子に対しても苦手意識を持っている。
思春期特有の表面と裏側のギャップのリアルさは、ご自身の経験もかなりの部分で投影されているのではないかと思われる。
岡村 ああしろ、こうしろと?
髙村 そうそう。そして、その欲求や希望が高くて大きい。全部、私の望みではないことだったので、非常に悩まされたまま大人になりました。結果的に、親の望むことは何一つできませんでしたけど。
岡村 お母さんの要求というのはどんなものだったんですか?
髙村 まず勉強。成績です。「なんでこんなものがわからないの」と。母は化学者で非常に頭のいい人でしたから、子どもがひどい成績を取ってくると、我慢ならなかったんです。しょっちゅう怒られました。それから、小さいときからピアノを習わされましてね。ある時期からは、「ピアニストになれ」と。私にそんな気はさらさらなかった。
岡村 ストレスでした?
髙村 ストレスを感じるほど真面目にやってませんでした。親の要求に真面目に向き合うような子どもでもなかったんです、私は。
上田朱美をストーカーのようにつけまわしていたことで重要参考人となったことがある浅井忍はADHDの特性をフルに発揮して、作品世界を縦横無尽に飛び回る。
その表現は、本当に目の前にいて描写したのかと見紛うごときリアルさである。
浅井忍は、右を向き、左を向き、足を揺らし、後ろを振り向き、一分間もじっとしていることができない。受け答えをする間にも話が次々に飛び、気分も上がったり下がったりで捉えどころがないが、本人もいくらかはそれを自覚していて、困っているような、焦っているような感じでもある、というのが刑事たちの第一印象だ。
単行本 P81
そしてついには彼の頭の中までが著者には見えているのではないかと思えるほどに詳細に語られていく。
ただしそれらの記憶は、警察に尋ねられることで呼び出されるに過ぎず、具体的な目的や自身の興味と結びつかない限り、忍にとっては辞書に並んだ文字列と変わらない。尋ねられない限り日の目を見ることはなく、たまたま日の目を見ても、興味がなければ意味や物語をもたないまま放置される、と当時の記録にはある。現に、忍は日華斎場で相野孝一の姿を見、半年ほど前に吉祥寺の東ロで女子高生と一緒だった男だと気づいたほか、その場所がラブホテルに近いことから援助交際という連想までは働かせているが、そこから先は一切の回路が消え失せてしまう。関心がないことには電流が流れないため、自分が眼にしたほかの光景を自分で思いだすことはないのだ。
単行本 P131
関心が向いていることに関しては写真を撮影したかの如く記憶している反面、関心が向いていないことに関しては記憶がすっぽりと抜け落ちている、という特性を見事に見事に活写しているのだ。
登場人物たちの2005年当時15歳という時代設定を描写するにあたって、ファッションやサブカルチャーはもちろん、ゲームについてもかなり細かく深くやり込んだものにしかわからないような表現が多用されている。
また現代(2017年当時)のスマートフォンでのゲームやSNSの使い方なども、熟知しているとしか思えないほどの圧倒的な解像度で描写されている。
モンスターストライクやシャドウバース、ゼルダやドラクエVIIIなどなど。
私自身がゲームに疎いため、何がどうなっているのか読んでいても分からなかったが、相当にやりこんでいるような書き方であった。
小説のために取材として取り組んだということらしい。驚愕である。
「新聞小説は毎回1000字。多視点で物語を区切って差し出せば少しは読みよいのではないかと思った苦肉の策です。また私は特にゲーム好きではありませんが、今の時代を小説にする時、ゲームやSNSぬきには成立しないでしょう」
1953年のお生まれ、ということは2024年で御年71。
著者・髙村薫の若者文化に対する解像度の鮮明さ、深さに圧倒される。
本作は著者も言うようにミステリーではない。
したがって、事件そのものへの謎はそれほど大きな吸引力はない。
本作の魅力は、市井の人々の暮らしと人生を辿りながら、本人にとっては小さくないそれぞれの「問題」を抱え、それでも乗り越えて生きていこうとする佇まいを感じることである。
それは同時に、我々に「幸せとは何か」と問うているような気がするのである。