【BOOK】『世界から猫が消えたなら』川村元気:著 人生を形作るもの

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Photo by Mikhail Vasilyev on Unsplash

余命わずかであることがわかった主人公・僕は、突然現れた自称・悪魔に取引を持ちかけられる。
「この世界からひとつ何かを消す。その代わりにあなたは一日だけ命を得ることができる」
自分の命と引き換えに、世界から何かひとつが消えていく。
愛すべきものたちが次々となくなっていくことで、紐づいていた関係や思い出も、まるで今までも存在しなかったかのように世界は変わることはない。
果たしてそれは本当に「いらないもの」だったのか。
いや、世界には「必要なもの」など本当はなかったのだろうか。
喪失の物語であると同時に、生きることの意味、かけがえのないもので溢れた世界をどう泳ぐかを問う、現代の寓話だ。

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世界から猫が消えたなら (小学館文庫)

僕は生きるために、
消すことを決めた。

今日もし突然、
チョコレートが消えたなら
電話が消えたなら
映画が消えたなら
時計が消えたなら
猫が消えたら
そして
僕が消えたなら

世界はどう変化し、人は何を得て、何を失うのか
30歳郵便配達員。余命あとわずか。
陽気な悪魔が僕の周りにあるものと引き換えに1日の命を与える。
僕と猫と陽気な悪魔の摩訶不思議な7日間がはじまった―――

消してみることで、価値が生まれる。
失うことで、大切さが分かる。
感動的、人生哲学エンタテインメント。

『世界から猫が消えたなら』 — 川村 元気 著 — マガジンハウスの本より引用:

雰囲気は以前読んだ『カラフル』(森絵都:著)に近い感じがする。

「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」

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Photo by Ian Schneider on Unsplash

言葉通りに受け取れば、トレードオフであり、機会費用の問題だ。
様々な自己啓発本やビジネス書でもよく言われている。
本作では、自称・悪魔が、それは「この世界のルール」だという。
主人公「僕」の母も同じことを言っていた。

「何かを得るためには、何かを失わなくてはね」
あたりまえのことだと、母さんは言った。人間は何も失わずに、何かを得ようとする。でもそれは奪う行為に他ならない。だれかが得ているそのときに、だれかが失っている。だれかの幸せは、だれかの不幸の上に成り立っているのだ。そんな世界の法則を、母さんは僕によく話していた。
文庫版P45

私はよく時間のトレードオフを考える。
あれもしたい、これもやりたい、でも全てをやる時間はない。
こんなときどうすればいいのだろうか。
割り切るしかないのだろう。
「やりたいこと」をあれこれ考えると同時に、「やらないこと」も決める必要がある、と思っている。
「やりたいこと」と「やらなければならないこと」で1日24時間をオーバーしてしまうなら、本当にやらなければならないのか、本当にやりたいのかを吟味し、優先順位をつけて、思い切ってやらないという選択もしなければならない。
そうすることで残り少ない人生の時間を有意義に使えると考えている。
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イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

本作を読む多くの読者は、少なからず「自分だったらどうだろうか」と考えるだろう。
以下、私語りが長ーくなるので、予め断っておく。

ネタバレ注意
ーーーネタバレ注意ーーー

世界から電話が消えたなら

gold iPhone 6
Photo by Amir Hanna on Unsplash

iPhoneが日本で発売されたのは2008年7月11日だ。
私が購入したのはCになってからで、確か2009年には手に入れていたと思う。
それ以前からガラケーは持っていたし、記憶が正しければ最初にケータイを手にしたのは1995年、今のauがセルラーだった頃だ。
当時はまだインターネットに接続はできなかった、というよりもインターネット自体が普及していなかったので、これで世界と繋がる、という感覚はなく、ただいつでもどこでもだれとでも電話できる、ということだけですごいことだと浮かれていたのだった。
実際にはいつでもどこでもだれとでも電話できる、というわけはなく、次第にだれも自分となんか話をしたいと思う人間などいないことに気づく。
それでも、ケータイが新しくなるたびに買い替え、PHSが登場する前から新しい技術の進歩に興奮し、スマホが登場しSNSが普及し、ずっと知的興奮の渦の中にいた。

なぜあんなにも「誰かと繋がる」ことに一生懸命だったのだろうか。
なぜ「誰かとつながらないといけない」と思い込んでいたのだろうか。
それは、たぶん、自分の弱さを認めたくなかったのだろう、と今は思う。

今は、より多くの人とつながっていたい、と思っていた過去が理解できないくらいに、めんどくさいと考えるようになった。
だれもが理路整然と話せるわけではないので、いくら聞いても理解できない話し方をする人は一定数存在する。
仕事でもオンラインで会議をするが、いくら会話しても何が言いたいのかわからない人がいる。
心の中で、頼むから結論をまず言ってくれ、そうしたらその後を聞く価値があるかどうか判断できるのに、と思っている。

ひとつの話題を始めて、結論を言わないうちに違う話題を始める人もいる。
話している途中で、言い方を変えて同じ話を繰り返す人もいる。
文章で書き起こしたらとんでもない構成で、人は話をしている。
トラブルを避けるためにはメールやチャットでのやり取りではなく、音声で会話した方がいい、などとビジネス書などでよく言われるが、あれは絶対ではない。
音声で会話することでむしろ分かりにくくなったり、印象が悪くなることもざらにある。
電話は、言語以外の声のトーンだったりニュアンスを伝えるためには有効だが、それを理解して使っている人が本当に少ないと思う。
とはいえ、私は電話はこの世界から消えても構わない、とまでは考えていない。
要は使い方次第である。

電話の方が話をしやすい、という本作の主人公「僕」のような人もいるだろう。

僕らは会ったところで、話すことなんてなかったんだ。
電話の、その物理的には遠いけれども、心理的には近い距離感が僕らに語るべきことを与え、何気ない話を鮮やかに彩っていたんだと思う。
文庫版P61

「私は、あなたの電話が好きだった。なんでもない音楽とか小説のことを、あたかも世界が変わることかのように話してくれる、あなたが好きだった。
会うとほとんど話せないくせにね」
文庫版P62

物理的に会えない距離にいても、その息遣いや話し方を感じたい相手もいるだろう。
災害が起きた地域に、家族や親しい人がいる人は、まず真っ先に電話で安否を確認したいだろう。
そういう人にとって、電話は消えては困るのだ。

世界から映画が消えたなら

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Photo by Jakob Owens on Unsplash

「人生は近くで見ると悲劇だけれど、遠くから見れば喜劇だ」
というのはチャップリンの言葉として有名だ。
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何か辛いことにあったとき、感情的になって悲しさのどん底に落ちてしまうことはあるが、時間が経って思い返してみると、笑い話にできる、ということはよくある。
また、お笑いなどでは辛かった話や愚かなことをした話で笑いをとることがある。
他人の不幸は蜜の味、とも言うが、他人の悲劇は喜劇として受け止めることができるのだ。
だからこそ、人は物語を求める。
他人が、あれをした、これをしたという話を見聞きして、喜劇として受け止めたいのである。

そうして受け止めた物語は、その人を形作る栄養素となっていく。
人生は物語でできているのだ。

私の映画館初体験は、記憶の限りでは小学生の頃に見た『E.T.』だったと思う。
ただただあのE.T.のビジュアルに意識がいってしまって、ストーリーは全然入ってこなかったのだが、映画館で見るという非日常に興奮していたのは覚えている。
ほとんど外食もしない家庭だったので、外へ出かけて映画館で映画を観るだなんて、とても特別なことだったのだ。

本作は映画版も公開された。
『世界から猫が消えたなら』映画オリジナル予告編 – YouTube

この世界から「消える」ものを映像として「見せる」のは難しいと思われていたが、まさに「消える」様子を見事に映像で表現している。
もちろんCGを使って、ということではあるが、「僕」そっくりの自称・悪魔も主演・佐藤健が見事に演じきっている点なども違和感なく世界観に溶け合っていた。
Amazon.co.jp: 世界から猫が消えたならを観る | Prime Video

世界から時計が消えたなら

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Photo by Renel Wackett on Unsplash

時計とは、時間を知るために発明された道具である。
では、時間は、どうやって成り立っているのか。
時間は、天体の星の動きから計測された地球の自転や公転を、ある一定の数字で示したもの、と言えよう。
もちろん、哲学的、心理的な意味もあるので、簡単には説明できないのだが。

本作では悪魔が「時間というものが人間にしか存在しないんですよ」と言っている。

「だから時間なんてものは、人間が自分勝手に決めたルールだっていうことなんですよ。太陽が昇って沈む、というサイクルは自然現象として確かに存在するのですが、そこに六時、十二時、二十四時などという『時間』をつけて呼んでいるのは、人間だけなんです」
文庫版P125

「僕」は猫の「キャベツ」と散歩に出る。
途中、道端に咲いている花の名前を猫の「キャベツ」に教える。
猫にとっては全て同じ「花」である。

「どうして、花なんかに名前をつけるのでござるか?」
「それは、色々と種類があるからだよ。区別をつけなくちゃならないだろ」
「種類があるからって、なんで全部に名前をつけなくてはならないのでござるか? 花は全部”花”でよいのではないか?」
文庫版P135

人間は虚構=フィクションを信じることができたから進化し、地球上の全ての動物の頂点に立った、と説いたのは『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリだ。
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サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

植物博士・牧野富太郎をモデルとしたNHK朝ドラ『らんまん』では、94年の生涯で1500種類以上の植物に学名を与え「日本植物学の父」と呼ばれた牧野博士が、植物に対峙する時、まるで人間と同じように名前で呼ぶ姿が描かれていた。
見た目や、内部の作りの違いから、新種であれば名前をつける。
そうして、人間はこの世界の成り立ちを知る手がかりを常に探し続けてきたのだ。

この世界には、こんなにも多くの動植物が生命を燃やしている。
生きている間に全てを見聞きすることはできない。
だからこそ、実際に見聞きしていない虚構=フィクションであっても、それを信じ、語ることができたからこそ、人類の繁栄がある。
それはこの世界が素晴らしいものだと認識することであり、同時に幸せを感じることなのだ。

時間という、見たり聞いたり感じたりすることが難しいことであっても、それに名をつけ、理解しようとする試みは、この世界を理解しようとすることであり、幸せを感じるためにも必要な要素であると思う。

世界から猫が消えたなら

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Photo by Yerlin Matu on Unsplash

本作ではたまたま「猫」だっただけで、犬でもよかったのだと思う。
ペットに限らず、一緒の時間を過ごしたものには、愛着が湧くものだ。
本作が突きつける究極の選択。
「愛するものと自分の命と、どちらを優先させるのか」という問いには、正解がない。

猫の「キャベツ」が見当たらなくなり、外にまで探しに出た「僕」は、どこにも見つからない「キャベツ」を思いながら、実は母親と過ごした日々の記憶を思い出していた。
「キャベツ」をいちばん可愛がっていたのが母親だった。
「僕」は母親の死に直面し、絶対に安全で安心だった存在の喪失に向き合うことになる。

この世界から「猫」を消すことは、母親と過ごした日々の記憶も消してしまうことに等しい、と感じる。
人が人生を振り返った時、記憶にとどまるのはどんなことだろうか?
きっと多くの人が、何をやったかではなく、誰といたのかを思い出すのではないだろうか。
それほどまでにひとりで何かをやったことは記憶に残らない。
誰かと、誰かのためにやったことに、幸せを感じるからだろうか。

「愛とは、気にかけること」という言葉がある。
私が学生の頃、ボランティアで足を運んでいた障害者施設に掲げられていた言葉だ。
逆説的に、愛情の反対語は無関心であるということだ。
人は成長するにつれて、さまざまな人と出会う。
多くの人とすれ違うが、気にならない関係には愛情は生まれていない。
逆に気になる、ということはそこに愛がある、ということでもある。

この世界から「猫」が消えるということは、愛するものが消えてしまうことを意味するのだろう。
「僕」はそれにノーを突きつけた。
自分の命と引き換えであっても、愛するものには消えてほしくない。
それこそが、愛するということだと、わかったのだ。

世界から僕が消えたなら

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Photo by Victoria Volkova on Unsplash

自分なんかがこの世界からいなくなっても、誰も困らないし誰も悲しまない。
自分なんかがこの世界からいなくなっても、世界はいつもと変わらず時間が過ぎてゆく。
それはそうだろう。
世界にはたくさんの人がいて、皆それぞれが自分の人生を生きている。
皆、人生というドラマの主人公なのだ。
誰かがいなくなっても、それは脇役が消えただけのことである。

だが、そんなふうに思っているうちは、幸せを感じることはできないだろう。
確かに自分1人がこの世界からいなくなっても、世の中は大きくは変わらない。
だけど、少ないかもしれないけれど、周りの近しい人たちは、多かれ少なかれ悲しい思いをするはずだ。
具体的に何かができるわけではないが、死を悼む気持ちは生まれてしまう。

多くの人は生まれてくる時には祝福されてこの世界にやってくる。
本人は泣いていても、周りはみんな笑っている。
多くの人は消え去る時には惜しまれて見送られる。
周りはみんな泣いていても、本人は笑顔で去りたいはずだ。

死は生物である限り、平等にやってくる。
そのタイミングが早いか遅いかは違いがあるものの、致死率で言えばまさに100%。
抗いようがない真実である。

だったら、精いっぱい生きていることを謳歌すればいい。
小さなことにクヨクヨしている暇はない。
誰かに感謝を捧げることに躊躇している暇はない。

そう、電話も映画も時計も猫も、必要ないものなんて無い。
みんなそれぞれに、それぞれの思い出があり、それが豊かな人生の一部なのだから。


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