「十人十色」という言葉があるように、人は誰しも「色」を持っている。
その人がその人たる所以を色に例えると、みなそれぞれ違った色をしているはずである。
他の誰とも似ていない色を持つ者もいれば、なんだかとても近しい色をしている隣人と出会うこともあるだろう。
だが、日常生活に忙殺されて、違うはずの色が同じ色に見えてしまうような気持ちになるときもある。
変わり映えのしない生活。変化の無い日常。
世界がモノクロームに塗りつぶされて、味気の無い毎日に押しつぶされそうになったあの頃の自分を思い出してしまった。
なんとほろ苦い作品だろうか。
カラフル (文春文庫)
「おめでとうございます! 抽選にあたりました! 」 生前の罪により輪廻のサイクルからはずされたぼくの魂が天使業界の抽選にあたり、 再挑戦のチャンスを得た。 自殺を図った中学三年生の少年、小林真の体にホームステイし、 自分の罪を思い出さなければならないのだ。 ガイド役の天使のプラプラによると、父親は利己的で母親は不倫しており、兄の満は無神経な意地悪男らしい。 学校に行ってみると友達がいなかったらしい真に話しかけてくるのは変なチビ女だけ。 絵を描くのが好きだった真は美術室に通いつめていた。 ぼくが真として過ごすうちに、しだいに家族やクラスメイトとの距離が変っていく。 モノクロームだった周囲のイメージが、様々な色で満ちてくるーー。 高校生が選んだ読みたい文庫ナンバー1。累計100万部突破の大人も泣ける不朽の名作青春小説。
カラフル (文春文庫) | 森 絵都 |本 | 通販 | Amazonより引用:
冒頭から不思議な世界に引き込まれる。
そして最後まで「生前の罪」という謎を追ってストーリーが展開していく構成。
「ぼく」と「天使プラプラ」のコントのようなやりとりが軽妙でポップに感じさせるが、生と死という重いテーマを包み込むオブラートのような役割を果たしている。
「ぼく」は自殺を図ったという「小林真」の家に「ホームステイ」することになる。
小林真の交友関係をなぞりながら、「ぼく」はあらためて現世での生活を通して、自分(小林真)はどういう人間なのか、何を考えていたのかを追体験することになる。
もうひとりの自分との出逢い
この世の中には2種類の人間しかいない。
「自分」と「自分以外」だけなのだ。
どこかのホストのような言葉だが、ひとつ忘れている視点がある。
「もうひとりの自分」もある、ということだ。
人は成長過程で、自分視点から脱却し、客観視点を獲得する時が来る。
人によって、いつごろ獲得するのかはばらつきがあるだろうが、遅かれ早かれ客観視点を持つことが、大人になるためのひとつの分水嶺と言ってもいいだろう。
小さな子どもが、自分のことを言い表すとき、普段呼ばれているニックネームを使うことがある。
例えば「ともひろ」くんが、普段は「ともちゃん」と呼ばれていたとする。
ともひろくんが自分のことを「ともちゃんはね、たのしかったよ」などと表現することがある。
この、こどもの一人称の呼称(自称詞)については、自我の発達との関係があるとされている。
十文字学園女子大学の長田瑞恵先生が発表された「幼児における自称詞の使用」という研究では、自称詞(「ぼく」「わたし」など)を使う子は使わない子と比べて欲求や感情などといった心の動きを表す心的用語の使用が多かったということが報告されています。
実は発達と関係している!?子どもの「名前呼び」、いつまでさせる? – シゲレコより引用:
小さな子どもは、自分と他者との境界が曖昧なことから、こうした自称詞を使うらしい。
客観視点を持つにしたがって、自称詞が「ぼく」「おれ」「わたし」などに変化していくようだ。
客観視点を持つことが、どうして成長となるのだろうか。
それは客観視点を持つことで自分自身を説明できるようになるからだ。
他者とコミュニケーションする際、自分のことを他者に説明する必要がある。
客観視点が成長の条件として機能していることは明白である。
「自分」と「自分以外の人間」と、「もうひとりの自分」が世の中にはいるのだ。
———ネタバレ注意!———
ガイド役の天使「プラプラ」が、一向に前世での過ちを思い出そうとしない「ぼく」に向かって説教をする場面がある。
「だいたいおまえさあ、前世のことなんか思いだそうともしてないだろ? 自分が何のためにここにいるのか忘れてないか?」
「ぼく」があまりにもやる気を見せないことで、プラプラはちくちくと「ぼく」が態度を改めるように諭す。
このあたりはもう「子育てあるある」と言っても差し支えないだろう。
業を煮やしてチクチクと詰める、というのは、どこのご家庭でも行われているのだろう。
しかし「ぼく」は反論する。
前世でどんな大変な過ちを犯したのか考えていると暗くなるからいやだ。
それに、前世での過ちを思い出して輪廻のサイクルに戻れたとして、生まれ変わってもまたどうせ同じ世界に生まれ変わるだけだ。
生まれ変わると記憶がリセットされるだろうから、また同じ過ちを犯してしまうかもしれない。
だとしたら、生まれ変わることに意味なんてあるのか、と。
「問題は、生まれ変わるぼくが変わっても、生まれつく世界は変わらないってことだよ。前世のぼくに起こったひどいことは、来世のぼくにも起こりうるんだ」
「つまり条件は皆おなじってことだ。だれも保証など持って生まれない」
「ホームステイみたいにね、当たり外れは、ふたを開けてみるまでわからないんだ」
自己と他者の境界が曖昧なとき、こうした「親ガチャ的」な考えに陥りやすい。
自分にとって都合の悪いことの原因は全て外部(環境=保護者)にある、という考え方だ。
だが、魂と身体とが分離した状況になったことで、少しずつ「ぼく」の考え方に変化が生まれていく。
魂だけの存在になってしまった「ぼく」は小林真として現世を生きることになるが、そのときの「ぼく」は魂として、少し斜め上空から小林真を見るように、別個の存在として「客観視」するようになるのである。
ひとりの人間も単色ではなく複雑な色をしている
タイトルの『カラフル』とは、社会に生きる人々、を表していると思う。
社会には実にいろんな人がいて、みんなそれぞれ違う「色」をしている。
ここで言う「色」とは、「性格」とも言えるし、「行動・態度・振る舞い」「考え方・思考のクセ」「キャラクター」などさまざまに読み替えることが可能だ。
人の、ある一面だけを切り取って見たところで、その人の実像は見えてこない。
温厚で人の良さそうな父親が実は自分さえよければいいと考える利己的な人間だったり、子ども思いの優しい母親が実はフラメンコ教室の講師と不倫をしていたとか、明るくて優しい同じクラスの女子が援助交際をやっていたり…。
ひとりの人間の中でも、さまざまな「色」に分かれている。
いや、分かれているというよりは、さまざまな「色」にコロコロと変わる、と言った方が正しいだろうか。
「ホームステイ」で小林家にやってきた「ぼく」は父親、母親、兄と出会い「平凡であたたかい家庭」だと思っていた。
だが、天使プラプラからの情報を聞いた途端に「悪魔の巣窟」のようだと感じるようになる。
やがて、家族と接していくなかで、徐々に家族の「違う色」に気づいていくのだ。
一方向からの見た目だけで判断するのではなく、その裏側にまで思いをはせることで、人間をより立体的に感じることができる。
平面の人間観から、立体的な人間観を獲得することが、大人への第一歩なのだろう。
まずは自分自身に「ホームステイ」することで、ちょっとした視点の違いが得られるかもしれない。
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