いつの時代も、今この瞬間を一生懸命に生きることがその人のベストなのだろう。
伊藤花は母の知人である黄美子と、同年代の蘭や桃子とスナック「れもん」を経営しながら、擬似家族のような暮らしを始める。
やがてトラブルが続き、カード詐欺の「出し子」に手を染めてしまう。
家族とは、金とは、生きていくことに意味はあるのか。
2023年第75回読売文学賞小説賞受賞作品。
Amazon.co.jp: 黄色い家 (単行本) : 川上未映子: 本より引用:
十七歳の夏、親もとを出て「黄色い家」に集った少女たちは、生きていくためにカード犯罪の出し子というシノギに手を染める。危ういバランスで成り立っていた共同生活は、ある女性の死をきっかけに瓦解し……。人はなぜ罪を犯すのか。世界が注目する作家が初めて挑む、圧巻のクライム・サスペンス。
バブルが弾け、失われた30年が始まった直後の90年代後半という時代。
熱狂から解放された余韻を含みつつ、大変化の予兆のように阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起き、そこからゆっくりと沈みゆく社会の中で、とりわけ生きづらく、取りこぼされていく人間たちが描かれている。
純粋に、ただ生きていくだけで金がかかる社会で、死なないためには金が必要になる。
その金を得るために、ただひたすらに働かなければならない。
そんな時、ふとしたことでクレジットカード詐欺の「出し子」を斡旋される。
ただ生きていくために、大切な人を守るために、違法行為に汗を流すことで、どんどん追い詰められていく。
金が人を変えていく強さと怖さ
宝くじで高額当選すると銀行である冊子が渡されるらしい。
高額な当選金ほどではなくても、稼いだ金の多寡に関わらず、「自分の金」を持つと、それを守ろうとする防御姿勢によって人格が変わったかと思うほどの行動を起こす場合がある。
それは誰にでもありうる話だ。
なぜ、これほどまでに人は金によって変わってしまうのだろうか。
著者は「お金は生存時間そのもの」と言っている。
【川上未映子×先崎彰容】芥川賞作家・川上未映子氏の最新作『黄色い家』が話題・・・作品で描いた“生きづらさ”“若者と貧困・犯罪”今の社会を討論【深層NEWS】
現代に限らず、人間の社会においては、生きていくためにはどうしても金が必要である。
逆説的に金がなければ生きていけないのである。
つまり、あとどれくらい生きていけるのかは、金の量によって左右されてしまうのである。
それほどまでに、金が持つ力は強く、同時に怖さも持っている。
「ベーシックインカム」という考え方がある。
ベーシックインカムとは? その内容やメリットをわかりやすく紹介 | ELEMINIST(エレミニスト)より引用:
ベーシックインカムとは、性別や年齢、所得水準などによって制限されることなく、すべての人が国から最低限の生活を営むために必要な一定の金額を定期的かつ継続的に受け取れる社会保障制度のこと。
生きていくために必要な最低限のお金が無条件に支給されれば、「お金は生存時間」という考え方の上では、生存時間が限りなく寿命に近づくことを意味する。
日本でも近年、議論が盛んになった時期があったが、常に「財源の確保」が問題視されている。
(財源など国債しかないだろうと私は思う)
ベーシックインカムが導入されれば、本作のような生きるために犯罪行為に陥ることも少なくなるだろう。
最近話題になっている「闇バイト」問題も、かなり解消されるのではないだろうか。
誰であれ、組織であれ、国であれ、金の使い方によって強さが決まる。
金の使い方を間違えてはならないのである。
無知と無垢は紙一重
15歳で黄美子と出会った伊藤花は、スナックで働く母と二人暮らし。
だが、家(文化住宅と表現されている)には常に母と同じスナックで働く女たちが入れ替わり寝泊まりするような生活を送る。
物心ついた頃から貧困の中にいると、自分が貧困であることに気づくことはない。
学校で、周囲との違いを感じて初めて、自分の家は普通ではないと気づくのだ。
17歳で黄美子と共にスナック『れもん』を開く。
良き偶然が重なって奇跡的に開業できたが、中卒で家出同然の花は身分を証明する術を知らない。
行政の福祉に相談するなどして、どうにかできると考えるのは、身分を証明することが当たり前にできる身分の人間の発想だということがわかる。
やがて同年代の蘭や桃子をスナックの従業員として雇い入れ、生活を共にする。
純粋に、友達として、困っている人を助けるつもりで、青春の延長のように自然な流れで擬似家族になっていく。
この辺りの流れは、必然性に曇りのない流れが余計にリアルを感じさせる。
令和の現代であれば、歌舞伎町周辺でパパ活する少女たちやトー横キッズなどで代表される若年層を想起させる。
90年代後半にも当然のようにそういった若者たちは存在していた。
だが、社会の中では「見えない存在」でもあった。
この時代の彼女たちには「名前」がなかったのだ。
認識されて初めて、カテゴライズするための「名前」が必要となる。
だから名前がないということは、存在しないのも同じということなのだ。
17歳でスナックを経営する、ということが可能かどうかはさておき、当然客として来たことはないのだが、母親の仕事として知っているということが知識の全てであったことは想像に難くない。
世の中を広く見聞きするにはまだ時間がかかる年齢だが、それができないうちから生活のために稼ぐ必要があった。
無知だから無垢なのか、無垢だから無知なのか。
「れもん」の営業を続けるうち、さまざまな客と接することで、狭いなりに世の中を知っていく。
知ることが増えるごとに、黄美子の異常性の片鱗に気づいていく。
境界知能が生きていくこと
蘭や桃子も子供ゆえの無知があるが、黄美子は「境界知能」ではないだろうか。
布団や洋服を毎回きちんと畳んだり、部屋のあちこちを拭き掃除する姿は、一見綺麗好きに映るが、こだわり方を見続けることで、その「普通ではない」様子に花は気づくことになる。
また、それ以外のこと、特にお金に関してはほとんど執着しない様子や、将来を悲観する花が相談しても、のらりくらりと交わされることで、花はやはり黄美子が普通ではないと感じるのであった。
境界知能とは?
“境界知能”とは「みんなと同じようにやろうと頑張ったのに」茨城の当事者の声 東京・東村山では支援の動き | NHKより引用:
「境界知能」とは、IQ(知能指数)が、平均的な数値と知的障害とされる数値の間の領域として医療関係者などに使われています。専門家の推計ではおよそ7人に1人が該当するともされています。
IQが低いということは、少し込み入ったことや複雑なことを理解することが難しいことを意味する。
現代社会で生きていくには、困難がつきまとうだろう。
だがその困難だということすら、理解できない場合があるのだ。
逆説的ではあるが、苦しいことが理解できない認識できないからこそ幸せだという考え方もある。
ヴィヴさんが言う。
「世の中は、できるやつがぜんぶやることになってんだから、考えたってしかたないよ。無駄無駄。頭を使えるやつが苦労することになってるんだよ。でもそれでいいじゃんか」
「苦労するのは、いいことなんですか」
「いいことだとは言ってないよ。しょうがないってこと。でも苦労もできない馬鹿よかましでしよ。あいつらは幸せかもしれないけど、馬鹿だよ。あんた、幸せになんかなりたい?」
「わかりません、幸せっていうのがどういう感じか」
「幸せな人間っていうのは、たしかにいるんだよ。でもそれは金があるから、仕事があるから、幸せなんじゃないよ。あいつらは、考えないから幸せなんだよ」ヴィヴさんは言った。「あんたは頭が使えるんでしょ。じゃあいいじゃん、それで。頭使って金を稼げば。博奕なんかやんないでふつうに生きていくぶんには、金はわかりやすい力だよ。それはそれでなかなか面白いもんだよ。知恵絞って体使って自分でつかんだ金をもつとね、最初からなんの苦労もなしに金をもってるやつの醜さがよくわかる。頑張んなよ」
単行本P373
象徴としての「家」
自分たちの居場所としての「家」。
自分たちを守ってくれる”黄色いものたち”を飾り、大切にしていく。
本作の英題は「SISTERS IN YELLOW」となっている。
著者自身も「houseでもないし、homeでもない」と語っている。
その「黄色い家」を守るため、頭を使ってツテを辿って、ヴィヴさんからの「やばいシノギ」をこなしいくうちに、花自身が「父親」としての立ち位置を担うことになる。
父親としての立ち位置というのは、簡単に言えば「家父長制」である。
家の中の絶対的権力者として、あらゆることを「決定」していく。
それは「特権」ではあるが、同時に「責任」がのしかかる。
この先どうすればいいのか、常に不安がつきまとう。
こういった感覚は、仕事がサラリーマンであれば、ほとんど感じることがないだろう。
だが、何かを経営したり、個人事業主として収入と支出とを常に睨みつけるような生活をしていれば、それはいとも簡単に感じることができるだろう。
正解がわからないことを常に考え続けなければならないのは、本当にきつい。
心身が休まることがない。
だが、そうも言っていられない。
生活していかなければならないし、家族を養っていかなければならないからだ。
著者自身も、若い頃はとにかく生活していくために、弟さんを大学へ進ませるために昼も夜も働いていたそうだ。
読み進めるうちに、リアルな心理描写に胸を抉られる思いがした。
花は、ただみんなで一緒に暮らしていければいい、という無垢な思いで、家賃や光熱費のやりくりを担ってきた。
だが、『れもん』なき後の”シノギ”で稼ぐしかなくなって、緊張と吐き気を抑えながら稼いでいくことを、1人で抱え、1人で考えて実行してきたのに、周りの黄美子や蘭、桃子のぐうたらとした生活にストレスを溜めていった。
そして、小さなことがきっかけで爆発したのだ。
「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」という思いは、「頭を使う側の人間」が陥ってしまう泥沼である。
あの純粋で無垢だった花が、まだ19歳の花が、あれほどブチ切れるという展開には驚いたが、同時に気持ちが非常によくわかってしまったのだった。
「犯罪小説」の姿をした「青春小説」
犯罪を犯す若者が必ずしも全員が悪人ではない、と思いたい。
そこには社会から「取りこぼされた」者たちがいる。
本作の彼女たちも、元から悪人だったわけではない。
生きていくために金が必要で、その金を稼ぐ手段が犯罪だった、ということだ。
もちろんそれは社会的に許されることではない。
個人最適が必ずしも全体最適にはならないように、全体最適のために個人最適が損なわれることは仕方がないことである。
だが、その時、取りこぼされてしまった者たちは、どうすればいいのか。
周囲はどうすればいいのか。
それは、映水(ヨンス)のように、寄り添い、時に助け、時に見守ることしかないのだろう。
黄美子のように、常に優しく受け入れ、いつでも「待つ」ことなのかもしれない。
本作にはその答えではないが、ひとつの光を見せてくれている。
黄色い家 (単行本)
乳と卵 (文春文庫 か 51-1)
ヘヴン (講談社文庫 か 112-3)
すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫 か 112-4)