
【BOOK】『オールド・テロリスト』村上龍:著 幸福よりも大切なのは今と明日を生き延びること
戦争を経験した最後の世代が、後期高齢者となって現在の日本を憂い、革命を起こすべく立ち上がりテロを起こす。
そんな荒唐無稽な設定が、現実にあり得ないとは言い切れない、と思わせるほどのリアリズムで、精緻な筆致によって綴られている。
本書が刊行された2015年から10年経った2025年は、「団塊の世代」全員が後期高齢者になる。
戦後生まれの「団塊の世代」は戦争を経験していない先頭の世代である。
もう戦争を経験した世代が元気にテロを起こすことはないかもしれない。
だが、本作にはテロを起こすしかないと思えるほどの、ある感情が、今もなお日本を覆い尽くし、閉塞感を突き破るのではないかと問うているのだ。
オールド・テロリスト
村上 龍(著)
文藝春秋
怒れる老人たち、粛々と暴走す。
「年寄りの冷や水とはよく言ったものだ。年寄りは、寒中水泳などすべきじゃない。別に元気じゃなくてもいいし、がんばることもない。年寄りは、静かに暮らし、あとはテロをやって歴史を変えればそれでいいんだ」
後期高齢者の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが浮かんだのは、もうずいぶん前のことだ。その年代の人々は何らかの形で戦争を体験し、食糧難の時代を生きている。だいたい、殺されもせず、病死も自殺もせず、寝たきりにもならず生き延びるということ自体、すごいと思う。彼らの中で、さらに経済的に成功し、社会的にもリスペクトされ、極限状況も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか。どうやって戦いを挑み、展開するだろうか。(著者「あとがき」より)
唯一無比の最新長編!
その感情とは、何か。
それは「静かな怒り」であると、描かれている。
単なる「怒り」ではなく、「静かな怒り」であると。
テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。
単行本P334
自分の思い通りにならないことで癇癪を起こす、幼児的な怒りではなく、世の中を変えるために維持し続けるための「静かな怒り」だという。
そしてその「静かな怒り」をキープするには、プランが必要であると。
強いモチベーションを維持するには、綿密なプランを立てる必要があるというのだ。
戦争を体験した老人たちは、綿密なプランを立てていた。
主人公・セキグチは、ままならない現状に翻弄されながら、その老人たちのプランを知ってしまう。
セキグチは村上龍の小説『希望の国のエクソダス』に登場している。
希望の国のエクソダス (文春文庫 む 11-2)
村上 龍(著)
文藝春秋
バブル崩壊から日本経済が停滞して10年、閉塞感が漂う2001年6月パキスタンの北西辺境州で、地雷処理に従事していた日本人の少年が負傷したとCNNが報じた。カメラの前でパシュトゥーン族の衣装でカラシニコフを構えた少年は、インタヴュアーの問いかけに「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」と応えた。その言葉は全国の中学生たちの意識に変革を及ぼす。彼らは集団不登校から自分たちでネットワーク『ASUNARO』を組織し、インターネットなどを駆使して新たなビジネスを始める。巧妙な外為市場の操作によって巨額の利益を得た元中学生たちは3年後、北海道に広大な土地を購入して30万人規模で集団移住、独自に都市整備と経済圏を創り上げ「希望だけがない国、日本」からの実質的な独立を果たす。
当時30代前半だったセキグチは、はるか年下の世代の「ASUNARO」の活躍や、日本から実質的な独立を果たした彼らを目の当たりにしていた。
本作でははるか年上の世代が、日本に変革を起こす様子を目の当たりすることとなる。
セキグチは本作では54歳。
2015年当時で54歳なので、昭和37(1962)年生まれと推定される。
著者・村上龍氏より10歳程度年下ということになるだろうか。
いわゆる就職氷河期世代(1970年〜1982年までの生まれ)よりは、一回りくらい年上の世代。
その就職氷河期世代は、2000年以降、雇用の調整弁的な存在として、常に雇用調整の負担を強いられてきた。
セキグチたちの世代であれば、まだバブル景気の恩恵に与れた世代だと思われるが、バブルの熱狂に煽られて社会人生活をスタートさせたとすれば、それはもう弱々しく厳しさに耐性のない人間がゴロゴロしていたに違いない。
戦争を経験した世代とは、比べ物にならないくらい、生物としてのサバイバル力が違いすぎる。
終始、セキグチは常に老人たちに軽くあしらわれ、ほとんど相手にされていない。
オールド・テロリストたちに翻弄され、ことあるごとに安定剤を噛み砕いて飲み込み、泣いて、嘔吐を繰り返す始末だ。
著者はなぜこのような弱々しい男を描いたのか。
本作に登場する女性たちは皆、弱々しくない。
むしろ強く、したたかに描かれている気さえする。
なぜなのか。
それは著者の中にずっと燻っている、現代の日本に関する「憂い」ではないだろうか。
デビュー作『限りなく透明に近いブルー』からずっと、一貫して著者が描く男性像は、弱々しい。
力強く勇ましい面が見えたとしても、全体的には弱々しい存在として描かれていると思われる。
時折、例外的にマッチョが出てくることはあるが、そのほとんどは訓練された兵士だったり、テロリストだったりする。
それは、生物を大きく性別で分けたときに、子を産む性としての母性の神秘性を認めていて、同時に並行して消耗品としての男性性をも描き出している。
長年にわたって連載されていたエッセイ『すべての男は消耗品である』は、そのような大きな諦観があったからこそのタイトルなのではないかと思う。
自分の手で獲物を狩る力を失った男は、女たちのための消耗品で終わるのか?恋愛、女、芸術、犯罪、才能、エイズ、国家、セックス、日本などについての過激、だが明解なメッセージ。(解説・島森路子)
ここでいう「自分の手で獲物を狩る力を失った男」がセキグチである。
『希望の国のエクソダス』の時代、セキグチと同棲していた経済専門のライター・由美子は、その後セキグチと結婚していた。
娘をもうけたのち、離婚して外資系の証券会社で勤務しながらアメリカ・シアトルに娘と共に住んでいる。
鮮やかな転身、と一言で言ってしまえばそうなるが、この設定にも著者の「女性性の強かさ」を見ることができる。
由美子は自らの強みを客観的に自覚できており、自身の能力を伸ばしつつ、周囲との関係性を大切にしながらも、捨てるべきものは捨て、自らの進路を開拓している。
どうせダメな人間なんだ、ほっといてくれ、というのは、最悪の態度だったのだと、今になってやっと骨身に染みて理解した。それは、自己嫌悪とか、自分を卑下するとかではなく、単なる甘えだったのだ。ときとして甘えは暴力よりもやっかいだと思う。暴力なら、立ち向かうとか、退避するとか、誰かに支援してもらうとか、何らかの方法で対抗できるかも知れないが、甘えは、容認するか、見放すかしかない。しかも、甘えに応じることができなかったと自分を責めたりして、傷を負うこともある。由美子は、そういったことを繰り返し堪え忍んだあと、見切りをつけた。見切りをつけるためには、男としてのおれへの気持ちがゼロになるまで耐える必要がある。ゼロになったのを確かめて、彼女は出て行った。
単行本P501
一方のセキグチは、いつまでも過去の栄光に縋り、自分の弱さと向き合うことから逃げ続け、ぐだぐだと塞ぎ込むばかりである。
さらにその対比として、戦争を経験した世代であるオールド・テロリストたちの強さと、ある種の「憧れ」が入り混じった描写がある。
日本を廃墟に戻すという明確な目標を持ち、実行しようとしている。知る限り、他にそんな人間はいない。みな、安全なところから批判したり、ぐだぐだ不平不満を言ったり、もっと生活を楽にしてくれとか、景気を回復させてくれとか陳情するだけだ。批判したり、陳情したりしても、この三十年あまり、まったく何も変わらなかった。裏退は静かにはじまり、やがて加速して、常態になった。考え方も、システムも、現状にフィットしていないと、ほとんどすべての日本人が気づいていたのに、ただ不平不満を言うだけだった。大規模なストライキやデモも起こっていない。そのうち目に見えて衰退していき、出口が見えないどころか、誰も出口を探そうともしなくなり、やがて出口のことを考えることさえ放棄した。ミツイシたちは、陳情したりしない。お願いなんかしてもムダだと骨の髄までわかっている。だから、テロを実行し、旧満洲の人脈と武器弾薬を使って原発を狙った。おれは、間違いなくミツイシたちに憧れに近い感情を持っている。
単行本P526
著者の感情が限りなくストレートに描写されているように感じた。
「自分の手で獲物を狩る力を失った男」は、複雑になりすぎた現代社会において「獲物」として何が「獲物」たり得るのか、合理的にこれが「獲物」として最適解だと言えるものが見えなくなっていて、探しあぐねていることに、自己嫌悪している、と著者は見ているのではないだろうか。
だからこそ、何の迷いもなくテロを実行するミツイシたちオールド・テロリストに「憧れ」を感じているのだろう。
では、その「憧れ」はどこからきているのだろうか?
老人たち=オールド・テロリストたちは、幸福よりも大事なものがある、という。
たとえばですけど、どんなものが、幸福より大切なのですか。
「あ、そうですね。まず、今と、明日を生き延びるってことですかね。食べて、寝て、生きるんです。死なないように、殺されないようにして、生き延びるってことです。幸福を最優先に考えると、人は殺されることに気づかない場合だってある」
単行本P391
戦争を経験した世代には、将来の夢や希望や贅沢をするという選択肢自体がなかった。
いや、あったかもしれないが、そんなものは生き抜くために必要というわけではなかった、と悟ったのだろう。
現代日本に蔓延する「自分探し」はもちろんのこと、将来の夢を語るとか、政治に無関心で生きる気力を失ったりした若者を見て、為政者に対する「怒り」が「憎悪」が肥大化しているのだと。
大切なのは、今と明日を生き延びることであり、それを最優先にしなければならない。
それ以上のことは存在せず、幸せを求めるとか将来の夢を思い描くなどという行為は、生き延びることよりも下位に位置する。
人間は社会的な動物なので、社会的な関わりの中で攻撃を受けたりすると、簡単に死に至ることがある。
まずは自らを守り、殺されないようにすることが大切であり、その上でやりたいことをやるべきだ。
そして殺されないためには、社会に対して静かに観察を続け、違和感があれば安易に同調することなく、「静かな怒り」を秘めておくべきなのだろう。
オールド・テロリスト
村上 龍(著)
文藝春秋
希望の国のエクソダス (文春文庫 む 11-2)
村上 龍(著)
文藝春秋
新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-29)
村上 龍(著)
講談社
愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫 む 3-10)
村上 龍(著)
講談社
半島を出よ 上 (幻冬舎文庫 む 1-25)
村上 龍(著)
幻冬舎