観終わった後、何とも言えない、胸の深い部分にドロドロとしたヘドロのようなものがべっとりと張り付いていて、それがボタボタと床に落ちていくような、そんな不快だけれど、これで少しつまりが取れて安堵できるような、そんな不思議な感覚が残った作品だった。
2019年公開の日本映画。
佐藤浩市、綾野剛、杉咲花をメインキャストに、監督・脚本は『64 -ロクヨン-』の瀬々敬久氏、原作は『悪人』『怒り』の吉田修一氏。
ある地方都市で起きた少女失踪事件。家族と周辺住民に深い影を落とした出来事をきっかけに知り合った孤独な青年・豪士と、失踪した少女の親友だった紡。不幸な生い立ち、過去に受けた心の傷、それぞれの不遇に共感しあうふたり。だが、事件から12年後に再び同じY字の分かれ道で少女が姿を消して、事態は急変する。一方、その場所にほど近い集落で暮らす善次郎は、亡くした妻の忘れ形見である愛犬と穏やかな日々を過ごしていた。だが、ある行き違いから周辺住民といさかいとなり、孤立を深める。次第に正気は失われ、誰もが想像もつかなかった事件に発展する。2つの事件、3つの運命、その陰に隠される真実とは――。“楽園”を求め、戻ることができない道を進んだ者の運命とは――。
引用元:Amazon.co.jp: 楽園を観る | Prime Video
本作品のストーリーは原作小説『犯罪小説集』の中の2編『青田Y字路』と『万屋善次郎』を組み合わせている。
犯罪小説集 愛蔵版
この原作小説は実際にあった事件を元に創作されている、という点で注目を集めていたらしい、ということがわかった。
ネット上には幾多の検証記事がある。
そのうちのいくつかを見てみると、実際の、この事件をモデルにしている、といった情報が見つかる。
『青田Y字路』のモデルとなった事件は「栃木小1女児殺害事件」(通称:今市事件)らしい。
田舎の小学生女児が下校途中で失踪する事件が連続して起きた事件。
女児の最後の目撃場所が三叉路(Y字路)であることや、犯人がアジア系の外国人であることなど、映画と類似点が多い。
『万屋善次郎』のモデルとなった事件は「山口連続殺人放火事件」のようだ。
集落の住人だった加害者の男H(事件当時63歳)が自宅近隣に住む高齢者5人を殺害して被害者宅に放火した殺人・非現住建造物等放火事件。
こちらも、近隣住民とのトラブルが原因だったり、加害者に「妄想性パーソナリティ障害」があり、周囲が自分の悪口を言っている、という思い込みから事件へと発展した点などで映画でも同様に描かれている。
映画『楽園』(原作・吉田修一『犯罪小説集』)スペシャル映像 – YouTube
ーーーーーネタバレ注意ーーーーー
集団の狂気は時に人を殺す
実際にあった事件が、本当のところどうだったのかは、もちろんうかがい知ることは出来ない。だが、実際にあった事件をモデルにした小説を映像化されてしまうと、たちまち、本当はこうだったんじゃないか、と思わずにはいられなくなる。
とくに「犯罪者」にされてしまった人たちの目線で描かれる、彼らの日常や思い出を目の前に突きつけられると、彼らだって好んでこうなったんじゃない、しかたがなかったんだ、という気持ちにさせられる。そしてそれは、日頃のニュースでは考えもしないことだったと気づかされ、己の想像力の足り無さに愕然とする。
周りの登場人物たちも皆、それぞれが己の事情で動いている。
それぞれの「正義」があり、「理由」があって行動している。
孫・愛華が消息不明になってしまい周囲が信じられなくなっていく藤木五郎(柄本 明)は、犯行を疑われた一人の青年・中村豪士(綾野 剛)が、食堂で焼身自殺を図った際、Y字路で愛華と最後に一緒だった湯川紡(杉咲 花)に言う。
「あいつが犯人だと言ってくれ!
・・・愛華だけが死んで・・・・どうしておまえが生きてる・・・。」
あまりにも残酷な台詞だ。
藤木五郎自身もその残酷さに気づいてなのか、もうどうにもならない現実に立ち返ったのか、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
残酷であるが故に、その集落で暮らす人間の奥底にある本音であることを示している。
「楽園」はどこにあるのだろうか?
疑われた青年、豪士はアジア系の外国人という設定のようだ。
小学生の時に日本に来た、という台詞や、小学校から帰ってきたら家が中高生の不良に取り囲まれ、投石で窓ガラスを割られたり、庭にあったものを投げ飛ばされるなど、迫害を受けているシーンもあった。
少子化が進み、労働力が足りなくなった日本において、移民を受け入れるべきかどうか、という議論は未だに進展していない。
それは、日本の、限界集落の現実が、本作で描かれているような「裏の顔」があるからにほかならない。
誰も本気で日本の将来のことなど考えてはいない。
自分の身の回り、自分たち集落の中のことばかりを考えているからだ。
どんな組織も、生物も、内側の密度が高ければ高いほど、内側の居心地はよいと感じてしまう。
実際の強度も高くなる。
そこへ、外部から新しく人が入ると、「外」からの「異物」として認識してしまい、「排除」するべく動いてしまうことがある。
これは、人間の「業」なのかもしれない。
そして、その「業」を乗り越えるには、何が必要なのだろうか。
青年・豪士は日本に来る前、母親に「日本は楽園だ」と言われ、連れてこられたという。
しかし、豪士本人は、そうは思っていなかっただろう。
少なくとも、日本で暮らしていくにつれて、そうではないことを実感していただろう。
誰からも信頼されず、誰も信頼できず、理由もなく迫害され続ける。
そんな国が楽園のはずがない。
豪士が紡を車で送っていくシーン。
真っ直ぐな田舎の幹線道路? で紡は豪士に聞く。
「どっか行きたいですか? 自分のこと、誰も、知らない街、とか・・」
豪士は、ぼそぼそと語り始める。
「俺、ここ来る前、母親に連れられていろんなところ行った。・・・・うん、どこに行っても、同じ。・・・どこにもない・・・・」
紡の「何が?」の問いに、豪士は答えなかったが、ここでの答えが「楽園」なのだろう。
豪士は、日本には楽園などない、としか思えなかったのだろう。
どこに行っても自分たち親子は「よそ者」であり、信頼などしてもらえない。
何も悪いことをしていなくても、攻撃の対象とされてしまう。
弱い者が弱いまま、誰にも救われない世界が楽園であるわけがない。
普通の人が、だんだんと壊れてゆく描写
最初の女児行方不明事件から12年後、また同じY字路で女児が消えた。
集落の人間は豪士が怪しい、と騒ぎ立て、追い詰めてゆく。
豪士は小学生のころ、家を襲ってきた人間たちの姿を重ね、怖れ、逃げていく。
逃げても逃げても、追いかけてくる村人たち。
誰も助けてくれない。
追い詰められた豪士は自死を選ぶ。
(ここでの演出で食堂の厨房に灯油タンクはないだろうと思ったが・・)
「万屋善次郎」の田中善次郎(佐藤浩市)もまた、追い詰められていった人間として描かれる。
両親が亡くなってから実家に戻り、養蜂場を経営する。
集落の中では初老ではあるが、若手扱いされる。
その「浮いている」感じが、村おこし事業や飼い犬の事件によって、次第に狂い始め、「墜ちてゆく」。
あまりにも、普通といえば普通の人である。
外国から来て長く日本で暮らしている人、Uターンでふるさとに帰ってきた人、そんな普通の人が、追い詰められ、壊れて、狂ってゆく様が描かれる。
山口県・阿武町の「4630万円誤送金事件」も、普通の人がちょっとした偶然から、大きく人生を狂わせてしまったように思える。
(これを書いている時点では、男性が逮捕され、使い込まれたとされた金の大半が決済代行業者から町へ返金されている段階)
発端は阿武町が新型コロナ対策の臨時給付金4630万円を、誤って24歳の男性に振り込んだことにある。
もちろん、誤って振り込まれた金を勝手に使ってしまうのはいけないことだが、そもそも誤送金自体が無ければ何も起こらなかったのではないか。
テレビやネットでは連日のように、この男性の態度や行いを糾弾する論調ばかりが目に付く。
立場の弱い者が周囲から追い込まれていく構造は、全く同じである。
消息不明の女児・愛華とY字路で最後に分かれたことで罪悪感を抱き続ける紡もまた、
閉塞感で息苦しさを感じながら集落で過ごし、やがて東京へ出て働く道を選ぶ。
他の登場人物は、どこかで、ほんの些細な出来事がきっかけで「墜ちてゆく」のだが、紡は度々踏みとどまる。
ずっと罪悪感を感じながら、自分だけが幸せになんかなってもいいのだろうか、という気持ちを持ち続けて生きている。
これは、震災後に生き残った人が抱いてしまう罪悪感と同じようなものだろうか。
「生き残ってしまった」という罪悪感。
常人には想像すら覚束ない重く苦しい「荷物」なのではないだろうか。
そんな紡を慕い、幼馴染の野上広呂(村上虹郎)も、だんだんと壊れてゆく人間として描かれている。
最初は単に気を引きたかっただけなのに、祭りの練習帰りにわざとタイヤをパンクさせて車で送って行こうとしたり、ついには東京にまで出てきて紡の近くにいようとする。
広呂もまた、集落の閉塞感に行き詰まり、村を出ることで自らの「ガス抜き」をしていたのかもしれない。
そうでもしなければ、もっと壊れていたかもしれない。
そして、広呂のような若者は、日本全国に何万人といることだろう。
そんな若者が、道を踏み外して「墜ちて」しまわないようにするには、何が必要なのだろうか。
希望を紡ぐのはなにか
紡は、その名の通り、これからの「希望」を「紡ぐ」存在として描かれているように思う。
「紡ぐ」には、綿や眉(まゆ)から糸を作るという意味のほかに、
物語を作るとか、言葉をつなげて文章を作る、といった意味がある。
内部の仲間内だけの利益を考えて、外から来た人間は少しでも内部の利益に反すれば、容赦なく排除していく。
閉鎖的な村社会は、うまくいっているときはとても強固で強い絆で結ばれているが、
ひとたび問題が起きれば、誰もが誰をも信じることができなくなり、次第にいちばん弱い者を死に追いやってしまう。
紡はそんな社会を、このままではいけないと気づいているただ一人の存在として描かれているように感じた。
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