圧倒的な暗黒の暴力と麻薬に堕ちた者の末路は神へ捧げられる“生贄”だった。
アステカの神話と現代をつなぐ命の刹那と永遠。生まれ、死ぬことでまた生まれる命のリレーと、際限のない欲望が渦巻く資本主義の成れの果てが描くのは、現代社会への鎮魂歌(レクイエム)なのか、もしくは希望(ホープ)なのか。
第34回山本周五郎賞受賞、第165回直木賞受賞のW受賞という快挙を達成した新次元のクライム小説。
365日の太陽暦を持ちながら260日を1年とする祭祀暦も扱い、高度な文明を築いたアステカ王国では、その最小公倍数である52年周期で「太陽が滅びる」と信じられていた。
アステカ人の末裔・バルミロは麻薬密売人としてアジアに潜伏していた。日本人の闇医師・末永と手を組み、巨額のマネーを動かす「血の資本主義」を構築する。
その欲望とアステカの神話に飲み込まれ川崎で生まれたメキシコと日本のハーフ・土方コシモは、『煙を吐く鏡』テスカトリポカの神話に戦いを挑んだのだった。
ずっと読みたいと思いながらなかなか手が出なかったのはそのボリュームもさることながら、これまでまるで馴染みのなかったアステカ王国を主軸としている点もあった。
だが、いざ読み進めると、その圧倒的な描写力と、メキシコから中南米のアカプルコ、東南アジア、さらには日本、川崎へと時間と空間を大きなスケールで展開していく。それでいて読者を迷わせることなく、グイグイと物語に引き込んでいく手腕はさすがである。
本作を読み進めるに従って「人間」そのものにはまるで価値がないことが思い知らされる。
価値を持つのはもっぱら心臓や腎臓などの臓器であって、欲望に狂う人間ほど扱いにくいものはない。
扱いにくいものはコストばかりがかかる。
どこまでも本音を表明することは、人間社会においてはリスクになる。
円満な関係を築きたければ、本音と建前とを使い分けなければならない。
だが、本作の登場人物たちはそんな綺麗な物言いはしない。
欲望満たすための手段として嘘を吐く。
その嘘はもはや生きるか死ぬかのサバイヴする手段であり、当然のようにやることだった。
わざわざ「嘘をつく」というニュアンスすらない。
やって当たり前であり、やらなければ待つのは死あるのみだ。
タイトルの「テスカトリポカ」とは、アステカ神話での主要な神のひとつ。
アステカ神話にはたくさんの神が登場するが、その中でも最強の神として捉えられている。
アステカの言葉ナワトル語で「鏡」と「煙る」を意味する言葉で構成されており、「煙を吐く鏡」と訳される。
物語の中でも「鏡は普通、煙なんて吐かないよな」というセリフも登場するが、この段階では読者の声を代弁している。
やがてその秘密は明らかになるが、ある自然現象を象徴している。
アステカの物語では、世界はこれまで4度滅びており、現代は5回目の世界だという。
その世界の終わり、滅びを象徴する自然現象とも結びついており、本作においては非常に重要なキーワードとなる。
本作のもう一つ、重要なキーワードは「人身供養と臓器売買」である。
アステカ王国には神々に人間を生贄として差し出す人身供養の風習が根付いていた。
その描写は暴力をまるで料理のレシピのように、軽やかに、スポーツの決まり手のようにスピーディーに、だが極めてグロテスクに描いていく。
心臓を抉り出し、顔の上に捧げる。
耳たぶから血を少し取り出して振り撒く。
バルミロはアステカの末裔として祖母からアステカの神話を聞かされ育てられた。
そして麻薬密売者たちの中で戦争に明け暮れる。
一方で、世界には現実に人間の臓器を売買するマーケットが存在し、バルミロは日本人の闇医師である末永と手を組み、ダークなビジネスを構築していく。
そして世界でも稀な「臓器供給地」である日本に拠点を置く。
治安が良く、無戸籍の子供がたくさん発生し、その親は子供を育てる気がなく、常に金に困っている。
新鮮な臓器、とりわけ若い身体の臓器が易々と手に入る。
こんな都合の良い「供給地」は世界でも類を見ないだろう。
そんな恐ろしいビジネスの舞台は、神奈川県川崎市。
多摩川を介しては東京都大田区と接している。
地元に住む者からしても、多摩川がひとつの境界線として機能しているストーリーは非常にしっくりとくるものがある。
物理的な境界線としてだけでなく、精神的な境界線であり、ここを越えることで世界が変わる、という感覚はよくわかる。
本作では世界中で広がり続ける経済格差、人種差別、麻薬密売、臓器売買、無戸籍児、ネグレクトなど、ありとあらゆる黒いイシューが入り乱れる。
それは人間の愚かさを映す鏡のようでもある。
世界の多くの国では資本主義というシステムの上で互いに生き残ろうとしている。
その中には、善人も悪人もいて、誰もが合理的に動いているようでいて感情的に動いてもいる。
信じる神も宗教もさまざまあり、何も信じない者もいる。
それぞれがそれぞれの主義を主張し、戦いに明け暮れる。
人間は人間と戦う。人間とだけ戦っている。
他の動物を相手には「戦う」という表現はあまり使われない。
戦う時はいつも人間同士なのだ。
それはまさに「鏡」の如く。
「鏡」に映った、同じ姿形をした人間を戦う相手として認識する。
黒曜石の鏡に映ったのは、醜い姿をした人間自身だったのだろうか。