【BOOK】『オロロ畑でつかまえて』 荻原浩:著 広告という嘘から見えた真実は

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タイトルの『オロロ畑でつかまえて』はもちろん、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』のパロディーではあるが、内容面でそこまで寄せていったというものではないと思ったが、どうだろうか。
各章ごとに広告用語を配して、その内容とリンクされているような内容、と思わせつつ、ユーモアたっぷりのドタバタ劇が展開されていく。
まるで漫画やアニメのようなキャラクター設定で、テンポよく話が進む。
ボリューム的にも映像化されたら、2時間ドラマできっちりとオチがつくだろうと思わせる、このまとまりの良さも読んでいて気持ちが良い。

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オロロ畑でつかまえて (集英社文庫)

超過疎化にあえぐ日本の秘境・牛穴村が、村おこしのため、倒産寸前の広告代理店と手を組んだ。彼らが計画した「作戦」とは! ? 痛快ユーモア小説。第10回小説すばる新人賞受賞作。

オロロ畑でつかまえて (集英社文庫) | 荻原 浩 |本 | 通販 | Amazonより引用:

本作が発行されたのが1998年。『小説すばる』への初出が1997年末。
この時代、内閣総理大臣が橋本龍太郎、肩出しファッションが流行、女子高生の間ではルーズソックスが継続して流行。酒鬼薔薇事件もこの年である。

私個人も著者と同じ広告業界へ足を踏み入れた頃でもある。
といっても当時の記憶はほとんど定かではない。
私はとにかくMacと出会って、Macをいじり倒す毎日だったため、社会的大事件もあまり気に留めていなかったのだった。

零細と言うよりもうすでに泡沫といっていいほどの小さな広告代理店・ユニバーサル広告社。
主人公はかつて大手広告代理店にいたアートディレクター杉山利史。
社長は常に金がないとぼやく石井健一郎。
パンクなアートディレクター村崎六郎。
アルバイトの猪熊猪熊えりか。
この「ユニバーサル広告社」はシリーズで3作ある。
本作『オロロ畑〜』は第1作目である。

ど田舎の「牛穴村」の町おこしを仕掛けるという内容だが、2024年の現代から見るとどうにも無理があるのは否めない。
だが、SNSはおろかスマホすらなく、ガラケーが普及し始め、PHSが登場したくらいの時代であれば、十分にあり得たであろうドタバタドラマではある。
とはいえ、現代にも通じる要素はふんだんに練り込まれており、本作が色褪せない理由でもある。

それは、
・都会と田舎の格差問題
・自分探し
・メディア(広告含む)の空虚さ

に現れていると読める。

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Photo by Matteo Catanese on Unsplash

都会と田舎の格差はいつの時代にも解消されることなく存在している。
人が多く集まれば、それだけ情報も経済も指数関数的に増えていく。
人は突然現れるわけではなく、地方から移動しているので、都会に人が集まれば自動的に田舎の人口は減っていく。
益々情報格差は広がり、それが経済格差へとつながっていく。
それは今に始まったことではなく、戦後から高度経済成長期にかけて拡大していったもので、今もなおそれは変わっていない。
当時でも極端なほど「ど田舎」としての「牛穴村」を描き、その「都会から見た田舎のおかしさ」を縦軸に物語は展開していく。

それと同時に「田舎から見た都会のおかしさ」も描いている。
テレビ番組がまんまと「ウッシー」騒動を煽り続ける様や、しばらくするとまるで何もなかったかのように見向きもしなくなったり、人気テレビキャスターの処世術など、今も何も変わっていない。
平成が「失われた30年」と言われるのはこういうところでもある。

自分探しというのは、主要登場人物のひとり・牛穴村の青年団団長である慎一の心の動きを追うことで見えてくる。
牛穴村の将来を憂う中で、自分たちの村をどのように捉えていくか、その過程において、たいした観光資源のない村の現状を見つめ直す必要性が出てくるのである。
作中「自分の庭で見つからないものは、どこへ行っても見つけることはできない」という言葉が出てくる。
灯台下暗し、自分の足元をよく見つめ直すことが肝要という教訓だろう。
兎角、欲が出ると先のことばかり考えてしまい、足元が疎かになってしまうのは、いつの時代も同じなのだろう。
ただ、自分たちの村の良さは、ずっと村の中にいては気付けない。
一度都会へ出て、文化や空気の違いを体感した慎一だからこそ、気付けたこともあっただろう。

また、牛穴村プロモーションを依頼する中で、広告の持つ「うそ」を当初は受け入れたものの、その後の騒動を経て「嘘」に対する欺瞞と良心の呵責から、慎一は全てを自分の責任として受け入れることとなった。
この辺りが『ライ麦畑でつかまえて』に通じる文脈かもしれない。

メディアの空虚さ、という点も現代と何ら変わっていない。
テレビやマスコミは相変わらず薬にも毒にもならないような情報番組を大量生産し続けている。
変わったのはコンプライアンスでガチガチに規制を張り巡らせて自ら首を絞めている忖度が幅を利かせている点だろう。
ユニバーサル広告社の面々はこうした空虚なマスコミを逆に利用しようとするのだが、彼らの立場もまた「代理店」という「最終責任をとらない立場」である限り、空虚な存在でもあるのだった。

広告業は医者や消防士のように、その仕事ぶりが人の生死に直接関わる、といったものではない。
あってもなくても誰も困らない、と言っては言い過ぎかもしれないが、資本主義社会における必要悪的なポジションであることは、間違い無いだろう。
だが、必死に自社の存亡をかけてプロモーションを依頼してくるケースもある。
その時、どこまで真剣に、どこまで「我が事」として取り組めるか。
そうした「血の通った」存在でありたいと願うのは、彼らだけでは無いはずだ。

本作は「ユニバーサル広告社シリーズ」の第1作として、第2作『なかよし小鳩組』 (集英社文庫)、第3作『花のさくら通り』 (集英社文庫)が続いている。


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