【BOOK】『慈雨』柚月裕子:著 己に恥じない生き方を慈しむ雨

time lapse photography of water hitting left palm
Photo by Geetanjal Khanna on Unsplash

「慈雨」とは、万物をうるおし育てる雨。また、ひでりつづきのときに降るめぐみの雨のことをいう。
主人公・神場は警察官を定年退職し、妻と共にお遍路の旅に出る。
巡礼の最中、捜査中の幼女誘拐事件が16年前の自身も関わった事件と酷似していることに気づく。
過去の過ちと警察組織への忠誠心の狭間で葛藤する男の、真実への矜持が迸る傑作長編ミステリー。

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慈雨

本作の構造は「安楽椅子」ならぬ「お遍路さん」探偵ミステリーである。

安楽椅子探偵とは?

安楽椅子探偵とは、現場に赴くなどして自ら能動的に情報を収集することはせずに、室内にいたままで、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りに事件を推理する探偵、あるいはそのような趣旨の作品を指す。

お遍路さんとは?

「お遍路」とは、約1200年前に弘法大師(空海)が修行した88の霊場をたどる巡礼のことで、お遍路する人のことを「お遍路さん」と呼びます。巡礼の旅は徳島からはじまり、高知、愛媛、香川の順にめぐるもので、世界的にも珍しい「回遊型」の参拝ルートが特徴です。その道のりは約1400kmにも及び、すべての札所を巡拝することで願いが叶ったり、弘法大師の功徳を得られるといわれています。

数多くのいわゆる「刑事もの」「警察もの」のミステリー小説を読んできたが、とりわけ異色の設定である。
主人公は元警察官の神場智則。42年間勤め上げた警察官を定年退職し、四国へお遍路の旅へ出ている。
巡礼の旅をしながら、とある幼女誘拐事件を知る。
元同僚や元部下たちから捜査の相談を受ける内、42年前の事件と酷似していることから、忘れ去ることのできない重大な過ちを反芻する。
神場は終始お遍路周りをしており、事件を捜査をするわけではない。
元部下と連絡を取り合いながら、少しずつ情報を集め、真実を見つけ出そうとするのだ。

こうした特殊な構造に注目しがちであるが、本作の魅力はどこまでも「男くさい」中年男の哀愁と仕事への矜持なのである。
神場は自身が過去に犯した過ちをずっと胸に秘めていた。
その贖罪の意味もあって巡礼の旅へ出たのだろう。

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Photo by Susann Schuster on Unsplash

どんな人間も間違わない人間はいない。
たとえ警察官であってもだ。
神場には警察官としての職務を全うしたいという気持ちと、警察組織全体に関わる信用問題との板挟みにあった過去があった。
お遍路の旅で自分自身の人生を振り返る。むしろそのために巡礼しているようなものだ。
過去を振り返り、消えない汚点を振り払おうとするが、考えれば考えるほど絡みついていく負の記憶。

ひとりの初老男性の悔恨と贖罪の物語、として読むこともできるが、最も心を打たれたのは、その仕事に対する正直さだ。
20代の若さで群馬県の県北の端にある集落へ駐在勤務を命じられ、難しい村人との関係構築などを経て、職務を全うする。
その後、本庁の刑事となり、定年まで務めるなど、一貫してその真摯な仕事ぶりは変わらなかった。

だからこそ、唯一と言っていい「汚点」が自分で許せなかったのだろう。
今、ここまで自分の仕事に誇りを持って働いている人間が、どれほどいるだろうか。
昨今ニュースを賑わせている政治家や企業経営者、国家の権力者は、己に恥じない仕事をしていると、胸を張って言えるだろうか。
自分たちの過ちを見て見ぬふりをしたり、無かったことにしたり、隠したりしていないだろうか。

神場は警察を辞めても、自分で根っからの刑事だと認識している。
お遍路旅の途中であっても、事件解決への糸口を常に掴もうと足掻いている。
その真っ直ぐに生きる姿勢に、天は恵みを与えた。
晴れた空から降る優しい雨、慈しみの雨、慈雨が。


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