「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」
中学校の終業式のホームルームで女性教師が告白する。
登場人物全員がどこか歪んで拗らせている。
その歪みは、それぞれの主観で綴られた「独白(モノローグ)形式」の文章によって、より際立っている。
衝撃的なラストに息を飲む、第6回本屋大賞受賞作。
告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)
Amazon.co.jp: 告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1) : 湊 かなえ: 本より引用:
「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」
我が子を校内で亡くした中学校の女性教師によるホームルームでの告白から、この物語は始まる。
語り手が「級友」「犯人」「犯人の家族」と次々と変わり、次第に事件の全体像が浮き彫りにされていく。
衝撃的なラストを巡り物議を醸した、デビュー作にして、第6回本屋大賞受賞した国民的ベストセラー。
独白形式は小説表現としては昔からある形である。
近代文学であれば、
吾輩は猫である (角川文庫) | 夏目 漱石
女生徒 (角川文庫) | 太宰 治
盲目物語 (中公文庫) | 谷崎 潤一郎
仮面の告白 (新潮文庫) | 三島由紀夫
などが有名だろう。
本作はそれぞれの登場人物たちの主観的な視点から物語が展開される。
独白体は、客観的な事実よりも、語り手の解釈や印象が強く出てくる。
読者は語り手の目を通してその世界を見ることになる。
その主観性は本作の独特な雰囲気を特徴づけている。
さらに独白体では、登場人物の内面世界が直接的に表現される。
思考や感情、意識の流れが生々しく描写され、読者にその人物の心理をより深く感じさせている。
また一つの事件が、それぞれの人物視点で描かれるため、時間の流れが非線形的である。
過去の記憶や未来の想像が現在の語りに混ざり合い、複雑な時間構造を持つ。
これにより、物語に重層的な深みが生まれ、読者の想像力をより刺激するのだ。
第一章は「聖職者」。
中学校の女教師からの「娘は事故死ではなく、このクラスのある2人に殺された」という告白から始まる。
初出は『小説推理』 2007年8月号で、当時は読み切りとして続きを書くつもりはなかったという。
まず驚くのは、モノローグ形式ならではの、改行がほとんどなく澱みなく話し続ける女教師の語り口が、圧倒されるほどにずっと続いていく文体だ。
淡々と、しかし時折ユーモアも交えながら、中学生が話に飽きないように話しかけている女教師の語りが、静かゆえにより不気味である。
内容は現実にはあり得ないとは思いつつも、1%も可能性がないのかと言われるとあながちそうでもないかもしれない、と思わせるギリギリのところを攻めているように感じた。
所詮、人の心の中は誰にもわからない。
モノローグの形にすることでそれがより強調されている。
第二章は「殉教者」。
クラスの委員長を務める女子生徒の視点。
女教師・悠子先生へ宛てた手紙として展開される。
なぜ「殉教者」なのか?
これはこの章では明かされない。
理由がわかるのは後半の章である。
第三章は「慈愛者」。
犯人とされた2人の中学生のうちの1人「B」の姉が母親の日記を読むという視点で綴られている。
ここでの「慈愛者」とは母親を指すのか? それとも姉を指すのか?
解釈はどちらにもできそうであるが、わたしは姉ではないかと考えている。
母親は「慈愛」というよりも「溺愛」であり、且つ「息子を愛する母親」である自分に執着し続けたからだ。
第四章は「求道者」。
犯人とされた2人の中学生のうちの1人「B」本人が、自身の行動をフラッシュバックとして振り返り語るという形式をとっている。
乱暴に簡潔に言えば「マザコン」少年の独白である。
事件の当事者としての目線は、他者の目線とは一線を画す。
それゆえの生々しさがある。
その行動の源泉には「母親に褒められたい」という核があり、それに終始固執する。
そのこだわりが不幸な方向へ向かった時、人はこんなにも残酷なことができてしまうのかと読みながら愕然とする。
第五章は「信奉者」。
犯人とされた2人の中学生のうちのもう1人「A」の生い立ちから母親への異常な愛着が綴られている。
こちらも乱暴に言い切ってしまうと「マザコン」が拗らせて大事になった、という話になる。
まさしく母を慕う「信奉者」であり、その執着ゆえにとんでもないことを実行してしまう中学生男子である。
第六章は「伝道者」。
視点は再び第一章の女教師となる。
「伝道者」とは教え導く存在。
女教師は犯人2人に対して更生の道を示してあげた、と解釈できるだろうか?
犯人2人の中学生は共に「マザコン」である。
それゆえに狂気に満ちた行動に走った。
であるならば、その狂気の対象である「母親」から引き剥がすことが肝要だろう。
Aの母親はAをある意味捨てているが、A自身が母親への執着が捨てられていなかった。
その執着を断ち切るために、A自身の発明品を使って、A自身の手によって母親を亡き者にすることとした。
Bは母親からの狂った愛情を受け、B自身もそれに応えようといていた。
だがBにHIVの疑いが生じたことから、感染しないように必死に遠ざけようとした。
結果的にどちらも元凶である「母親」から離れることができた。
これをもって「更生の道」へ導いたと言えるのだろう。
女教師には「聖職者」である教師という立場と、娘を殺された母親である「被害者遺族」ということなる立場が同時に1人にのしかかる。
被害者遺族としての「復讐」と聖職者としての「更生の道を示すこと」を同時に成し得るためには、こうするのがベストとは言えないかもしれないが、ベターだったのかもしれない、と思ってしまう。
映画版はAmazonプライムビデオで鑑賞できる。
Amazon.co.jp: 告白を観る | Prime Videoより引用:
本屋大賞に輝く湊かなえのベストセラー小説を、独創的な映像感覚と確かな演出力を持つ中島哲也監督(『嫌われ松子の一生』『パコと魔法の絵本』)が映画化した、2010年を代表する大ヒット作品。「生徒に娘を殺された」という女教師の告白からはじまり、殺人事件に関わった登場人物たちの独白形式で構成される物語は、虚実入り混じり、驚愕・戦慄・唖然の連続。そのショッキングすぎる内容から賛否両論、話題騒然となった衝撃作。
小説原作をそのまま再現したような展開でありながら、圧倒的なエンタメ作品となっている。
一部原作とは違う展開になっている箇所もあるが、概ね踏襲しつつ程よくカットされ、テンポよくストーリーを追うことができる。
それぞれのキャラクターの動きがわかりやすくなっている反面、動機については少しわかりにくくなってしまっていたかもしれない。
小説はすぐに映像がイメージさせるような文章ではない。
読む物の想像力を大きく巡らせることが可能な書き方になっていて読みやすさがある。
それを映像化すると、必ずしも読んだ人のイメージ通りにはなりにくいが、映画版はよりイメージが補完されるような作りになっていたように思う。
映画を見てから小説を読むと、より細部にまでイメージを巡らせることができるのではないかと思う。
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