「道徳」という言葉はおそらく誰しもが一度は聞いたことがある言葉だろう。
だが、説明しろと言われるとこれほど困難な言葉はない。
どのように説明しても合っているようなそうでもないような、曖昧で非常に手触りのない言葉でもある。
関西に程近い地方都市・鳴川市。
『道徳の時間を始めます。殺したのはだれ?』有名陶芸家が死亡している現場に残された謎のメッセージ。
次々に起こる類似したイタズラとも思われる事件が続く中、ビデオジャーナリスト伏見は謎の女・越智冬菜からドキュメンタリー映画のカメラマンを依頼される。
それは過去に同じ鳴川市で起きた殺人事件を追う内容だったが、証言者を撮影していく中で現在の事件とのリンクに気づいていく・・・
謎が謎を呼ぶ展開に心揺さぶられるラストまでページを捲る手が止まらない、圧巻の第61回江戸川乱歩賞受賞作。
道徳の時間 (講談社文庫 こ 90-1) | 呉 勝浩 |本 | 通販 | Amazonより引用:
連続イタズラ事件が起きている、ビデオジャーナリストの伏見が住む町で、陶芸家が死亡。現場には、『道徳の時間を始めます。殺したのはだれ?』という落書きがあり、イタズラ事件との類似から同一犯という疑いが深まる。同じ頃、伏見にかつて町で起きた殺人事件のドキュメンタリー映画のカメラの仕事が舞い込む。証言者の撮影を続けるうちに、過去と現在の事件との奇妙なリンクに絡め取られていく。第61回江戸川乱歩賞受賞作。
Contents
「道徳」とは何か?
一般論として、言葉にすると「道徳とは、人間が社会の中で他者と共に良く生きるための指針である」と表現できるだろう。
単なる規則やマナーとは異なり、人間としての在り方や生き方に関わる深い考えを含み、他人を尊重し、協力し合いながら、より良い社会を作っていくための基盤となるものである。
自分の行動を振り返り、他者の立場を考え、より良い選択をする力を身につけることが道徳を学ぶ意義とも言えそうだ。
特に、相手の立場に立って考えることが肝要だろう。
相手、すなわち「あなた」の存在がなければ、道徳を守るという思考にはならない。
失うものがない人が無敵と称されるのはそういうことだろう。
伏見には妻・朋子や息子・友希の存在があることで、ギリギリ踏み外さずに済んだ。
だが、向晴人や越智冬菜には「あなた」に相当する人がいなかった。歯止めが効かなかったのはその違いだろうか。
本作では、主人公・伏見の住む鳴川市の鳴川第二小学校において13年前にある事件が起こる。
それは教育界の重鎮・正木昌太郎が教え子・向晴人によって刺殺されるという事件である。
正木は講演として「みんなくん」の話をした。
「みんなくん」というのは、ひとつの人格を持った存在で、皆や私の上位に存在する概念のようだ。
モラルや公共心を養うためにそういった概念を考え出したのだ。
その正木と反りが合わなかったのが同じ小学校の美術教師・滝田だ。
滝田が問題視していたのは、公共心(=みんなくん)の概念だけでは人は正しくあれないからであった。
人間とはそんなに簡単なものではなく、複雑で合理性に欠ける存在である。
公共心のような一部の隙もない合理性だけでは統率されるものではない。
個人と個人との強固な関係性がなければ、人間は自分自身を制御できない存在なのだ。
個人に寄り添った他者の存在がなければ、よりよく生きることはできない。
そういう意味で、滝田は正木の教育論は不十分であると考えていたことは容易に想像がつく。
多くの個人にとって「寄り添ってくれる他者」とは「親」の存在だろう。
だが、誰しも「寄り添ってくれる良き存在」が実の親であるとは限らない。現実はそう甘くはない。
殺人犯・向晴人の妹、向美幸は親からのDV被害を受けながら、売春行為などの性被害に遭い、挙句に兄は公衆の面前で殺人を犯すという地獄を見た。
何処にも身の置き所のない向美幸の絶望を思うと、その深淵さに胸が抉られる。
何も「寄り添ってくれる他者」は親でなくても構わないはずだ。
物語の冒頭、地元鳴川の名家出身の陶芸家・青柳南房が死体で発見される。
南房は生前、地域の公園等に自身の制作による遊具を設置していた。
だが、この遊具は子どもが遊んでいるうちに故障し、怪我をするかもしれない可能性を残しつつ、遊具に敢えて不具合を仕込まれていたのだった。
それは自身の子どもを事故で亡くしたことによる腹いせであった。
しかし、隠居してからは自宅敷地内にある遊具で遊ぶ友希たちには、危ないからその遊具で遊ぶなと声かけしていたという。
良心の呵責に苛まれていたことが伺える。
うつ病となり、自死を選んでしまった最後だったが、人としての生き方を後悔していたのだろうか。
南房もまた、寄り添ってくれる他者の存在があれば、もう少し変わっていたのかもしれない。
文章の荒削りさが魅力
江戸川乱歩賞を受賞した本作だが、応募時点の文章はかなり荒削りで各選考委員から修正したほうがいいとダメ出しすらされている。
書籍化された時点では修正されたものを我々は読んでいるわけだが、商業出版する上で修正しなければならない点があるのは仕方がないとしても、この荒削りな文章が却ってリアルさを醸し出している、と私は感じた。
登場人物の心情表現などで深みがないというコメントもあるようだが、私はそうは感じなかった。
無味乾燥なるツルッとした文章よりも、こういったごつごつした文章の方が好みである。