【MOVIE】『シン仮面ライダー』感想 孤独と向き合い乗り越えていくヒーローの物語


まず、初見で面白い作品だ、ということはわかったのだが、なぜ面白いと感じたのかを説明しようとすると非常に難しい作品だ、ということにも気付かされた。
だが、本作は『シンウルトラマン』同様に、孤独なヒーローが自閉の世界から人を信じることで成長する物語だ。

2023年9月22日 鑑賞 Amazonプライムビデオ #映画

仮面ライダーになりたかったあの頃

1970年代に幼少期を送った多くの少年がそうであったように、私もまた仮面ライダーになりたいと本気で思っていた一人だ。

仮面ライダーの何がそうさせたのか。
悪を倒す正義のヒーローは、他にもたくさんの作品が作られてきた。
その中でも「仮面ライダー」は特別な存在だ。

理由はさまざまあるだろうが、ひとつは「等身大のヒーロー」ということがあるのではないだろうか。
原作の石ノ森章太郎先生の作品群に共通している点でもあると思うが、ウルトラマンのように巨大化するのではなく、人間と同じ大きさのヒーローが活躍することで、身近なイメージが子どもにも分かりやすく伝わったのでは無いだろうか。

さらに「影のあるヒーロー」であることも、石ノ森作品の特徴だろう。
仮面ライダー以前の「ヒーロー」は、おそらく「仮面の忍者赤影(1967)」とか「鞍馬天狗(1969)」、もっと古くは「月光仮面(1958)」あたりだろうか。
それらは正義の味方として、悪を倒すこと自体にカタルシスを与える存在だったのだろう。
だが、仮面ライダーや他の石ノ森章太郎作品のヒーローは違った。
正義のヒーローとして悪と戦うのだが、どこか「悲哀」を感じるのだ。
その悲哀は壮絶な過去を背負っていたり、自身の制御できない暴力性であったり、現代風に言えば自己肯定感が低い主人公たちであった。
そうした点がヒーローであるのにどこか人間くさく、より身近に感じられた、という点は大きかったと思う。

庵野監督の仮面ライダー愛

筋書きとしては庵野秀明作品らしい面はもちろんあったが、他のどの庵野作品よりも庵野臭が抑えられていたように感じた。
優しく、およそヒーローらしくない溌剌さの無い本郷猛はエヴァで言えばシンジであり、戦闘能力が高く人間らしくない女性・緑川ルリ子は綾波レイだろうか。
シンジが自分と向き合い、己の生き方を見つけていく様と本郷猛の振る舞いは、似ていないようで似ている。
本郷猛は当初ルリ子を守ることを目的に戦っていた。
そのうち、父親の生き方を意識し、自分は家族よりも他人の心配をしていた父親のように生きたいと願い、ただ心配はするがちゃんと戦うことも忘れない、という生き方を獲得していった。
シンジと本郷猛の行動から、両者は相似形のように庵野ロジックにハマっているかのように見えた。

いくつもの怪人(本作では〇〇オーグと表現されていた)が登場した。
それぞれ何らかのメタファーになっていたように思う。

クモオーグ:「社畜」思想
 組織の命令は絶対 人間が嫌い 人間を殺すことが幸せ

コウモリオーグ:優生思想
 疫病で生き残った者だけの世界が最善

サソリオーグ:享楽的・刹那的思想

ハチオーグ:1984のビッグブラザー的超管理社会思想
 奴隷は幸せ=サラリーマン、終身雇用制度

KKオーグ:報復思想
 復讐は善

チョウオーグ:精神世界 スピリチュアル系? 
 暴力の素である肉体を捨ててハビタット世界へ

オーグたちは決して人類を征服したいわけではなく、あくまでも人類全体が幸せになるにはどうあるべきか、という考え方をしている。
それだけに、ヒーローもののテンプレートとしての「勧善懲悪」は無い。
登場する者全てが「自分は正しい」と考えて行動している。
それはリアルな現実世界でも同じことが言えそうだ。
我々は概ねそういう行動をとっているのではないだろうか。
またオーグたちだけでなく、作品全体に通底するテーマとして「人類の幸福とは何か」という問いが何度も提供されていたように思う。

人類の幸せとは何か?

その問いは、さまざまな言葉で登場人物たちに語られている。
正確ではないが次のような言葉だ。
「辛いに一本足せば幸せになる」
「暴力を使わずに争いを解決できるのは人間だけ」
「自らの欲望を満たすだけでは幸せにはならない」
「誰かにとって助けになることが幸せに近づく一歩だ」

幸せの形は人ぞれぞれ。
と同時に、絶望の乗り越え方は人それぞれあるし、それは誰にも教えられることではない。
だからこそ、ショッカーの創設者(クリエイター)の理念はそこにある。
「深い絶望を、いかに克服すれば、人間は幸せになれるのか」

孤独なヒーロー、いや、ヒーローとは本来孤独な存在である。
強烈なブラックコーヒーの味。最近のヒーローはミルクや砂糖たっぷりのカフェオレ、いやミルクコーヒーになってはいないか。
それは確かに飲みやすいであろう。万人受けしなければならない商業作品においては、その方向性がビジネス的には正しいとされているのかもしれない。だが、苦いブラックコーヒーほど、喉越しや後からくる鼻に抜ける香りが、癖になる。

人間が人間らしくなく、改造人間の方がより人間くさい。
この意図的な描き方は、なぜなのか。
本郷猛はハチオーグとの戦いで、最後のトドメを刺さずに変身を解除した。
このままマスクを外さないと地震の暴力性を制御できずにハチオーグを殺してしまうと考えたからだ。
しかしその後、斎藤工演じる情報機関の男が容赦無く射殺してしまう、というシーンがある。
人間の方がより人間らしくない振る舞いをする。
これも現実世界のミラーリングなのか?

本郷猛はなぜ戦うのか?


緑川ルリ子を守ることを博士に託された後、それを戦う免罪符としていたが、
やがて、本郷猛の父親が家族よりも他人を心配して守ることを選んで死んだ。
息子である自分(本郷猛)も、そうありたいと願った。だから戦うのだと。

イチローとルリ子の対称性も素晴らしい構成だと感じた。
イチローはもともと人間として生まれ、改造されることで人間から離れていった。
肉体をなくすことで暴力を発生させないシステムを構築していった。
ルリ子はもともと人工子宮から生まれた人造人間。
最も人間から遠い存在として誕生し、緑川博士によって人間らしさを獲得していった。
肉体を持ち、きちんと食事を摂り、シャワーを浴びたいと甘えたり、より人間臭さを見せている。

愛のない力は暴力である。力のない愛は無力である。

本郷猛は、最後まで明確な生きるビジョンを持っていない。
本作の根底にあるのは、そのビジョンを獲得していく物語ということなのだろう。

たった一人のヒーローが何かを成し遂げたとしても、世界はそれでも続いていく。
カリスマ性を高めたとしても、やがてカリスマ性は薄れていく。
だからこそ、志ある人へ繋いでいくこと、次の世代に語り継ぐことが必要だ。
イチローに託すのは、継承することの必然性や大事さを描いていたのだろう。