【BOOK】『向日葵の咲かない夏』道尾秀介:著 自分というバイアスを引きずって
知っていたのは、道尾秀介の代表作で、話題になってかなり売れたということだけだった。
それ以外はほとんど予備知識なく読み始めてしまった。
後から分かったことだが、どうやら賛否両論ある作品らしい。
確かに、これは読むものを選ぶし、他人に勧めやすい作品ではない。
知っていたのは、道尾秀介の代表作で、話題になってかなり売れたということだけだった。
それ以外はほとんど予備知識なく読み始めてしまった。
後から分かったことだが、どうやら賛否両論ある作品らしい。
確かに、これは読むものを選ぶし、他人に勧めやすい作品ではない。
あらゆる小説には、それを読むのにふさわしいタイミングがある、というのは積読中毒者である私の言い訳に過ぎないのだが、本作は確かに、読むべきタイミングがあり、その良きタイミングで読むことができたという意味では幸福であった。
「人間五十年」とは言うものの、現代を生きる我々は「人生百年」とか「リスキリンング」だとか言われて、まだまだもがいていかなくてはならない。
仕事、パートナー、こども、近隣との付き合いなどさまざまな関わりにおいて、どうにもならないことばかりが押し寄せる。
ここらあたりで人生を仕切り直し、再出発する、という選択肢があっても良いかもしれない。
そんなきっかけとなり得る一冊だ。
人が人を裁く上で最も重いとされている「死刑」制度。
人が人の命を法に基づいて奪うということは、どういうことなのか、という俯瞰した立ち位置からの是非ではなく、当事者性を持って「死刑」という制度とどう向き合うのかを描いた超傑作。
「やられたらやり返す」ことが、本当に正しいのか。
確定死刑囚がもし冤罪だったら、誰が責任を取るのか。
死刑を執行する刑務官の、職務とはいえ人を殺したという罪悪感は、誰が担うべきなのか。
誰にも正解がない問題と向き合い、完璧なまでの構成力で紡がれた圧巻のストーリーと結末。
第47回(2001年度)江戸川乱歩賞受賞作品。
「家庭裁判所調査官」と聞いて、どんな仕事なのかを説明できる人は、そう多くないだろう。
それだけ普段の生活には馴染みがない職業である。
本書はその家庭裁判所調査官になる、前段階の「調査官補」が主人公の連作短編集。
家庭裁判所調査官に採用されたばかりの新人・望月大地は2年間の養成過程研修で九州・福森家裁に配属される。
新人ではあるが実際の少年事件を担当するなかで、表面には見えてこない心の内側に、その人にしかわからない真実があることに気づく。
それは必ずしも良いことだけとは限らない。
相談者と彼らを取り巻く家族との抗いがたい葛藤と苦悩を共に考え、向き合うことで、望月大地自身もまた成長していく物語。
2023年の夏の甲子園大会(第105回全国高等学校野球選手権大会)は、慶應高校が大会2連覇をかけた仙台育英高校を破って107年ぶりの優勝を飾った。
アフターコロナの時代を象徴するように、声出し応援やブラスバンド演奏の解禁、熱中症対策や投球数制限、ベンチ入りメンバーの増員、5回終了時のクーリングタイムなど、話題も多く盛り上がった。
だが、この盛り上がりは遡ること3年前の「大会中止」があったことも大いに関係があると思う。
2020年5月20日、第102回全国高等学校野球選手権大会は、新型コロナウイルスの感染拡大により中止された。戦後では初の中止決定となった。
その中止となった大会の年に、高校3年生というタイミングを迎えた選手たちは、何を思い何を感じ何を考えたのだろうか。
本書は「あの夏」に、誰も経験したことがない事態に見舞われた「高校野球部員」たちの心の内に寄り添い、「正解」はいったい何だったのかを追い求める、迫真のスポーツドキュメンタリーである。
同級生を殺害した容疑で14歳の息子・吉永翼が逮捕される。それなりに平和に暮らしていた日常から一転、加害少年の親となった主人公・吉永圭一は、ニュースで見る匿名の「少年A」ではなく、自身の息子と正面から向き合うことで、自分自身の心の奥底にある弱さと向き合うことになる、葛藤と決意の物語。
「十人十色」という言葉があるように、人は誰しも「色」を持っている。
その人がその人たる所以を色に例えると、みなそれぞれ違った色をしているはずである。
他の誰とも似ていない色を持つ者もいれば、なんだかとても近しい色をしている隣人と出会うこともあるだろう。
だが、日常生活に忙殺されて、違うはずの色が同じ色に見えてしまうような気持ちになるときもある。
変わり映えのしない生活。変化の無い日常。
世界がモノクロームに塗りつぶされて、味気の無い毎日に押しつぶされそうになったあの頃の自分を思い出してしまった。
なんとほろ苦い作品だろうか。
昭和の終わりの広島の、仁義なきヤクザ社会の抗争とそれを「必要悪」として生かさず殺さず手玉に取る悪徳刑事・大上。目的のためなら手段をいとわない強引な違法捜査に呆れながらも、次第に大上の刑事としての「孤高の矜持」に惹かれていく新米刑事・日岡。警察とは、男とは、命とは何か。何もかもが薄汚れていて、何もかもがまぶしく見えたあの時代。男と男の魂のぶつかり合いに心揺さぶられる前代未聞の警察小説。
首都直下型地震が発生し、首都東京が壊滅的なダメージを受けた平行世界の日本が舞台。
刑事を辞めていまはヤクザの用心棒をやっている巽丑寅は、不思議な黒人の少年・丈太と出会う。
震災を機に見かけられるようになった「震災ストリートチルドレン」を追ううちに、政治家、ヤクザ、謎のアナーキスト、あらゆる外国人労働者たちが入り乱れ、沈みゆく日本の中で雄叫びを上げる。
圧倒的筆致で描き出す「震災後の落ち行く日本」の姿がリアルに迫る傑作だ。
なんという美しい物語なのだろうか。
数学の世界の純粋性と人が人を想う真っ直ぐな純粋性との完全なる調和。
森に代表される自然界の摂理と深遠さ。
自然と宇宙との運動に身を任せることで得られる圧倒的な世界への手がかりが脳内で煌めく瞬間の、なんと饒舌なることか。
「21世紀のガロア」とも呼ばれた数学の天才・三ツ矢瞭司と、その天才に嫉妬しながらも憧れ、愛したもう一人の数学の天才・熊沢勇一の、数理の世界でしかつながり合えなかったふたりの友情に胸が締め付けられる。
2003年第130回芥川賞受賞作。
当時最年少での芥川賞受賞ということで話題になった。
「青春期特有の視野の狭さ」と「自分の立ち位置を確認したくて仕方がない心理」つまりアイデンティティへの渇望と模索を描いた「裏の」青春群像劇、として読んだ。
「HOLLOW OUT(ホロウアウト)」とは、直訳すると「凹(くぼ)める」「決(さく)る」「抉(えぐ)る」という意味らしい。
ニュアンスとしては、ある一定の領域に対して中央付近だけを取り除く、欠落させる、といった感じだろうか。
東京一極集中が進む中、2020年二度目の東京オリンピックが開かれる直前、トラックに青酸ガスを仕掛ける事件が発生。
単なる嫌がらせでは収まらず、高速道路やトンネル、ガソリンスタンド、東京湾にかかる橋にまで事故が頻発。
さらに首都圏を直撃する台風によって、東京に物資が入らなくなる「ホロウアウト」状態に。
何でも揃う大都市の「当たり前」は名もなき人々の不断の努力によって支えられていたのだ。
現代に生きる我々の、明日にでも起きかねない”物流クライシス”の傑作。
血の繋がらない親子。
という設定だけを聞くと、お涙頂戴物のイメージが先行してしまうが、どうもそうでもない気がする。
2019年の本屋大賞を受賞。帯にも「著者会心の感動作」とある。
だが、私にはそういう感想はあまり沸かなかった。
どこにそんな感動ポイントがあったのか分からず、しばし悩んだほどである。
「それはジャーナルなのか?」
忙しさで目が回る毎日の中で、いかに芯に情熱を持ち続けることが出来るか、お前にはそれがあるのかと問われている気がした。
他紙に抜きつ抜かれつするスクープ合戦は、時として上司の命令に背かなければ得られないこともある。
中央新聞さいたま支局の関口豪太郎は連続少女連れ去り未遂事件を取材する中、七年前の連続幼女誘拐事件での誤報を思い出す。
単独犯で結審したが実はもうひとり共犯者がいるのではないかと気づいていたにも関わらず、報道しなかったことで次の事件が発生するのではないか、という焦りが連日の取材の疲れを倍加させる。
新聞記者と警察官の欺し欺される夜討ち朝駆けの取材攻防。
元新聞記者の著者ならではの圧倒的にリアルな現場のやり取りに隠された、犯人への怒りと組織の論理との間に揺れる葛藤が、読む者の胸を討つ。
「安定は情熱を殺し、緊張、苦悩こそが情熱を産む」フランスの哲学者アランの言葉は、全ビジネスマンの胸に届くべき言葉だ。
宅配最大手の『暁星運輸』広域営業課長・横沢は、郵政民営化により郵便局が宅配事業者とガチンコ対決となる中、ネットショッピングモール最大手『蚤の市』から法外に安い運送料金を迫られる。大手コンビニチェーンの宅配事業も奪われ企業存続の危機に陥る。起死回生の一手は「出店料無料のネットショッピングモール」事業の立ち上げ。『蚤の市』vs『暁星運輸』の戦いの横では、『蚤の市』による『極東テレビ』株大量買いによる敵対的買収が絡み、企業同士のビジネスバトルが繰り広げられる。
就職活動という、人生においてもっとも嘘をつき、嘘をつかれ、自分を欺き、美辞麗句の海で溺れる経験ができる貴重な機会において、本当の自分とはどんな自分なのかを問い、追い詰められていく六人の大学生たち。
二転三転、良い人だと思っていた人が実は腹黒いところがあり、でもやっぱりあとから良い面が見えたり。
月の裏側のように、人が人を見ているのは、ほんの一面に過ぎず、人間とは実に多面的な存在であることを、巧みなストーリーテリングで描ききった快作だ。
「僕が僕であるために」という歌があったが、自分が自分であるということを証明するには、自分以外の「モノ」が必要である。だが、やってもいない事件の証拠が、ことごとく「それは自分である」と告げていたら、いったいどうやって自分が …
犬を中心に、殺人事件や動物虐待、保護犬の問題、前科者への偏見、ネット上の誹謗中傷など、さまざまな社会問題が複雑に絡み合い、物語が一つに収斂していく。
人の裏の顔と動物の純粋さの狭間にある、暗くて深い溝を越えられるのは、一体何なのだろうか。
「もうひとつの顔」は、誰にでもある。
家庭での顔、職場での顔、周りの人間関係によって様々な顔を我々は無意識に使い分けている。
そして、それは自分以外の人には「見せられない顔」とも言えるのだ。
子どもが誘拐された内海夫妻に、ある違和感を感じる刑事総務課の大友鉄は、自分自身の「もうひとつの顔」との狭間で揺れ動きながら、事件の真相に迫っていく。
警察小説史上、最も優しい(かもしれない)シングルファーザー刑事の、慈しむ視線が事件を解決へ導く、切ないラストに胸が痛む。
これはもはや「大河ドラマ」である。
読み始めてすぐにそう感じた。
ひとりの男の一生を追う物語は、波瀾万丈と表現するだけでは決して表せない、重く太く深い何かがある、そう思わせたのだ。
「人はなぜ生きるのか」生涯をかけて問い続けた、その答えを、松永弾正久秀は見つけたのか。
本作は、人間とは何かを突きつける、今という時代に読まれるべき慟哭と賛美の書だ。